『自由意志による結婚の破滅』を書いた当時の野枝は22歳である。当時の女性の精神が現代と異なるのは、時代が人を作る源泉だからであろう。自己をこれほど客観視できる女性が今の時代にはいない。自由意志による結婚から、「にせものの愛」の生活に足を踏み入れ、子どもすら失う離婚という、「高い代価」を払ってでも彼女は、「にせもの」を買い戻さねばならなかった。
伊藤野枝の生きざまは、鋭い反省に満ちた悲痛な記録である。彼女の、"ごまかしの循環を断ち切る"強い意志は見習うべきものがある。そして彼女の強さは、「女に逃げない」ところでもある。男女平等と口では言いながら、都合の悪いところは女に逃げる昨今の女性に比べて、男尊女卑社会という時代にあって、野枝のように凛とした女性はむしろ魅力的である。
わずか28年、その炎の生涯のなかで、勝気な文学少女が特高警察によって虐殺されるに至ったのも時代の悲劇であった。短い生涯のなかで三度結婚、七人の子を生んだ。20歳で平塚らいてうから青鞜社を譲り受け、大杉栄とアナキズムに邁進しながら2000枚の原稿を残している。野枝を思想家、評論家と呼ぶにはいささか独断的であり、作家というのは未熟すぎる。
彼女は旧い習俗や道徳に反旗を翻し、周囲の事情や人の迷惑すら顧みず、猪突邁進を信条とした。彼女を非難などできない。あの時代の習俗壁というのは、ひたすら利己主義に徹底する以外は破れなかった。その意味で彼女は自分自身を生きた女である。彼女の生誕地福岡県糸島郡今宿村(現在は福岡市西区の一部)では、未だ土地の恥さらしの汚名をきせられている。
彼女とて被害者である。父は働き者ではなく家計は母の支えで成り立っていたが、長女であった野枝は厳しい経済状況のなか、中学を卒業するまで親戚の家をたらい回しにされた。実の親に甘えることも出きず許されず、悩みを打ち明ける親友もいない環境のなかで、彼女は無邪気さを失い反骨の魂を育む。美貌はなく服装も薄汚いが、飾らぬ姿が男たちを魅了した。
野枝のことも書き出すと止まらぬがひとまず置いておき、真の愛情と自己の意志を大事に考えるなら、それを妨げるいかなるものと戦うような人間が、我慢できない相手との離婚に勇敢なのは当然である。確かに芸能人などの離婚には、確かな経済力があるから自由自在に離婚するようだが、一般の女性はスーパーやコンビニでのパート仕事を覚悟せねば踏み切れない。
離婚は結婚の破滅なのか?そうではなかろう。離婚は結婚への一つの答えではなかろうか。時代はそういう流れに移行しつつある。完全とはいえないまでも社会福祉が充実し、パートの仕事など、女性が一人で生きることがそれほど困難でなくなった時代にあって、離婚は踏み出しやすくなってしまったのではないか。自分の周囲に離婚経験者は多く何の違和感はない。
ある結婚式で、とある親族の初老男性がこんな挨拶をした。「将来もし二人の間に、超えられないような何かが起こりそうなとき、今日の結婚式を思い出してほしい。みんなに祝福された今日の日を大事にするためにも、どちらも頑張って添い遂げて欲しい」。確かに一理あるが自分はそうは思わなかった。あの結婚式をよきものにしておくためにも別れるべきである。
すべてを否定するではなく、過去のあの日をよきものとしておくために別れた方がよい。映画『追憶』からそのことを学ぶ。結婚をした悔いというのは、結婚そのものの全否定ではなく、別れなければならなかった原因を問題にすればいい。『追憶』の二人に、「結婚した悔い」は微塵も感じられない。監督のポラックは二人の愛情がなぜ壊れることになったかを描いている。
結婚すれば男女は夫婦である。が、愛情というのは結婚したことによる夫婦としての一体観 (一体感ではなく) から生まれるのではなく、一体的な行動から生まれるものだと映画のなかに発見があった。一体的な関係の強まりにしたがって愛情は深くなり、強い一体関係が生活の一場面から全体的なものへと広がるにつれて、愛情は高まっていくものではないかと。
ケイティは共産主義者だが、日常生活で思想が問題になることはなかった。例えば仏教徒とキリスト教徒の結婚生活が、思想信条の問題で破綻することは稀であろう。が、ケイティは自己の主義主張をハベルの人間関係のなかでも臆せず吐き出したりしたことで、ハベルの気持ちが徐々に変化していく。カープファンの夫とタイガースファンの妻でも上手く行くというが…
映画から学ぶ。小説から学ぶ。賢人の書から学ぶ。実体験から学ぶ。あらゆるところから人は学ぶ。人は唯一学ばねばならぬ存在なのは、それほどに本能習性が脆弱だ。サルは人が育ててもサルにしかならぬが、サルが人を育てれば人はサルになる。生きていくための知識や技術の習得・訓練も必要だが、それにもまさるほどに大事なのは、人間関係術であろうか。
夫婦の愛情というのは、長い生き合い関係の経過のなかで作られるもの。そこいらの異性に本能的に感じる好みが主体となる軽薄な恋情と同種のものであってはならない。相手のパンツな中を見てみたいどこが愛情であるか。発情期が限定されない人間が年がら年中発情スケベになるのは仕方がない。ネコは年に一度に発情だが、人間の女性とて月に一度は確実に発情する。
浮気者なスケベ亭主をもつ妻に、「ほっときなさい。チンポがきたなくなるわけじゃないし、たまには戴きなさい」と説得した。妻に同じことをいった。納得したのか、バカな男と見下げたのかそこは分からぬが、男の勝手な言い草には違いない。仮にもし妻が、「いいじゃない一度くらい他の男と交わって。減るものじゃないでしょ?」といわれて、はたして納得するだろうか?