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結婚した悔い、しない悔い ⑦

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「ゲス」という言葉を聞くが、ゲスとは下種、下衆、下司と筆記する。心根が卑しい、下劣、身分の低い者などの意味があり、対義語は上衆、上種、上臈(じょうろう)。有体にいえば、高等なものと下等なもので、双方は否定し合う関係で統一される道理がない。が、高等と下等、古いと新しい、ポジとネガなど否定し合う矛盾の統一関係を明らかにするのが弁証法。

恋と愛も観念論でいえば、恋とは欲しがり・むさぼるもの、愛とは与えるもの、尽くす心であるから反対の性質をもつ。つまり、恋愛とはそういうもの、矛盾しあうものである。恋は自分の欲望だが、愛には相手と自分との関係である。相手が誰であれ一方的に抱けるものでもある。イケメン俳優であれ、韓流ミュージシャンであれ、会ったこともない相手に恋をする。

思春期少女のジャニ恋も誰でもかかるハシカのようなものだ。しかし、人と人との恋愛関係は、盲目的にではなく自覚的理性的にしか持続はできない。つまり、個人的欲望に盲目的に従おうとする気持ちと、相手との人間関係を理性的に守ろうとする心と、果たしてどちらが高等であるか、疑問の余地はない。そこらあたりに少女の恋と大人の恋愛の違いを見るのだが…

つまり、少女の盲目的で一方的な恋愛が破綻するのは、そういうことの要素が大きいということ。「自分は若かった。あまりに若すぎた」と悲恋体験した人の反省の弁がそこにあるが、少女が恋愛に結婚に憧れ、理想を抱くのは無理からぬことだ。「あいつはゲスな人間だ」、「彼女ははなはだしいゲス女」などの言い方は、身勝手で自己中心者に向かってのようだ。

「人のために尽くすのは高等で、自分のために尽くすのは下等」と、この考え方は正しい愛情論を作るために必要だと、長い間信じられてきたが、どうやらそれらはキリスト教や儒教から生まれてきたものらしい。「人に尽くすのが高等だ」のどこに根っこがある?「神様がそういった」、「仏様がおっしゃった」と返すなら、それはおとぎ話の類ではないか。

このような論理に惑わされることなく、自らの頭、深い思考で考えてみると、自分に尽くすことは何も下等ではないし、相手に尽くすのも一概に高等ともいえない。「滅私奉公」が封建制度の遺物として残ってはいるが、戦後になって民主主義の導入とともにプラグマティズム(実利実益主義)の性格が強くなり、滅私奉公的な自己犠牲的精神は、吹っ飛ばされた。

日本の神風特攻隊を分析すれば、こういう考え方が軍国主義精神である。現在の北朝鮮を見ても金正恩を崇め奉るのが危険であるように、かつて日本も天皇を神格化して崇拝した。同じように、恋愛関係において相手に尽くすのが高等という考えは、やはり過去の遺物であろう。そうではなくて、自らの内なる本質的な性格で、相手に尽くす=自らの喜びなら否定すべきでない。

こういう利他精神を持つ人はいる。親がこの喜ぶ顔が見たいから尽くすというのも利他愛であろう。他人に尽くすだけが自己犠牲を強いられるではなく、自分に尽くす場合も自己犠牲はいる。朝、眠いのに起きるのも、したくない宿題をするのも、学校を卒業するために頑張るのも広義の自己犠牲である。何かを行為するときは必ず辛さや我慢は必要なのだから…。

我慢は自己との戦いであり、我慢を通し貫くことは自分を犠牲にしている。つまり、自分を犠牲にしないでこの世は生きて行けない仕組みになっている。話を結婚に戻す。前の記事で伊藤野枝が、『自由意志による結婚の破滅』という論文に言及したが、『婦人公論』1917年9月号に掲載された一文は、後悔や愚痴の決算表ではなく、誇りと再出発に満ち満ちたものである。

「破滅ということは否定ではない。否定の理由にもならない。私は最初にこのことを断っておきたい。不純と不潔をたたえた沈滞の完全よりはるかに清く、完全に導く」と書き出しで始まる野枝の言葉に、保守反動の輩どもは、「それ見たことか」と嘲笑った。野枝個人の失敗を、一般的な自由結婚そのものの当然の敗北といい立てた。こういう非難や誤解はいつの世にもある。

そんなことに怯むことなく彼女は最後の一文を以下のように締めくくる。「私は自分の失敗に対しては、自分の不用意に責任を持たなければならないと思っている。それはほとんど、すべてといっていいくらいに、私の心持ちや行為と、私の根本思想や態度との矛盾に対しての私の判断がはっきりしなかったためである。私は、自分の失敗から、これだけの結論を受けとった」。

見事なまでの自己責任だが、彼女の自己批判の根拠とは、彼女が以前に述べた、「結婚という約束に対しての私の盲目」のことであろう。自らに忠実で正直で美辞麗句を排した一文を前に、しょーもない言い訳がましい河野景子などは比較にも値しない。自らの「晩節」の域にもなれば、むやみな他人批判は控えるといいつつも、「しない」ということではない。

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