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結婚した悔い、しない悔い ⑥

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シリーズものが続くのは分かる。頭がそのこと一色になるからだ。この表題で書き始めて結婚の様々な後悔は耳目にするが、結婚しない悔いはあまり聞かない。上野千鶴子や田嶋陽子らフェミニストは、ウソかマコトか独身を肯定しており、後悔の「コ」の字もない。アラフォー、アラフィフ女のやや後悔めいた言葉を記事で読むが、期待は持つ以上完全後悔ではない。

そんな自分に、「結婚しない悔い」が書けるのか?まあ、経験や体験のないことは想像で書くしかないし、それなら地底探検も月世界旅行であれ、書くことはできる。「適齢期」という言葉がいわれるが、結婚の適齢期というのはどういうもので、誰が定めたものかを考えてみる。われわれの時代は、男が26~27歳、女は25歳までといわれたが、当時の社会通念であろう。

男に焦りはなかったが、女性はなるべく25歳までにという、強迫観念めいたものがあったのではと、当時の世相を思い出す。男にはないが(正確にはあるのかも知れぬが)婚期を失った女性という言葉は辛辣である。「結婚しないは人にあらず」みたいな言われ方をされた時代である。価値観が多様化の現代においても、それでも非婚は何かと後ろめたさがある。

『婦人公論』1971年10月号において、「結婚の意味・同棲の意味」をテーマに座談会が行われた。そのなかで評論家の山手秀子は、自らの離婚体験をもとに以下のように述べている。「結婚はその昔、人類が文明の原始蓄積をする段階で考え出した重要な出来事であったに違いない。だがそれが、発生当時ほどの用をなさなくなった時に、"慣習"として残るのだ。(中略)

結婚という慣習化したものを、本質的なものとすることで支えられてきたのが、封建社会と、現代サラリーマン社会である。封建社会とサラリーマン社会の共通項は、男女の性的分業の固着であり、タテ割階層分化であり、管理社会の強化である。秩序と権威構造、身分と役割のバランスの上に安住する社会である。そこでは結婚の慣習が核的支柱をなす。

結婚の慣習を固定させるためには、女が"慣習的"に妻となり、母となるという事実を、それが女の"本質"だと強調することが必要である」。なんとも居丈高な物言いであろう。彼女は、悪い結婚体制を改善するというより、結婚制度そのもを否定するフェミニストである。当時はまだフェミニストなる言葉はなく、「前衛的人間のヤミクモな反体制者」と批判された。

離婚を否定する理由はどこにもないし、フェミニストたちの結婚否定論に賛同はできない。山手氏の言葉には以下の伊藤野枝の一文が反映されている。「結婚の失敗とか破滅とかいう事が多少の問題になるようになったのは、日本でも最近の事だ。従来の、ただ従順という美徳が女の唯一の売り物であった間は、そのような事は問題らしい問題には少しもなっていない。

そうして、そのような婦人の美徳を保護するために努めている多くの人々は、従来不道徳な事として社会にいれられなかったふしだらな結婚が、そのような問題を引き起こしているのだといっている」。確かに家父長制度時代の結婚は、自分の意志を無視され、否定されて押し付けられた結婚にすら従順でしかなく、我慢できない夫のもとでも従順であらねばならない。

だからか統計上では、「離婚は少ない」となっている。伊藤野枝は親から押し付けられた結婚を家出することで破談にし、好きだった高校教師辻潤宅に飛び込んだ。しかし、結婚とは本人同士で成り立つものではない。彼女はこう記している。「そこには姑や小姑もいた。私たちとはまるで違った思想、違った趣味、違った性格もった、私にとってはアカの他人がいた」。

彼女は自由意志での結婚を遂行するためには、両親や縁談を持ち寄る周囲の人と戦うしかなかった。彼女は両親を説き伏せることはできなかったが、両親を捨てて飛び出すことはできた。しかし、飛び込んだ先の姑や小姑など、「アカの他人」に囲まれた辻家で戦うことはできなかったし、飛び出すこともできなかった。家をでることは夫と別れることを意味した。

それでも彼女は飛び出す決意を固める。それが、『自由意志による結婚の破滅』という論文の表題となった。貴乃花親方と離婚した河野景子は、彼女の方から(女性経験の浅い=本人の弁)親方に接近し、妊娠6か月の出来婚を果たす。そんな彼女が本を書くなら伊藤野枝の反省文と同じ、『自由意志による結婚の破滅』であるべきだか、書いてることは「わたしは被害者」?

読んではないが、情報社会だから中身を目にすることはある。「本質は現象する」といったのはヘーゲル。本質とはものごとの内面の姿、ものごとの背後にあってその基礎をなしている本当の姿をいう。現象とは、ものごとの外面の姿で、実際に感覚でとらえることのできる姿のこと。要するに、本質とは内面の本当の姿、現象とは外面の見せかけの姿といえよう。

本質は現象を通じてのみ現れ、現象として現れない本質はない。つまり現象として現れない本質は本質とはいえない。「本質は現象する」とはこのことをいう。本質を様々に置き換えることはできる。例えば、「バカは現象する」、「賢さは現象する」のように。これらは隠そうとして隠し通せるものではない。如何に隠そうとかならず目に見えて現れる。バカも利口も。

しかし、当人は気づかない教えることも無理。夫婦生活を洗いざらい書くのは愚かな行為。お金の手段でやるなら愚かを超越する。お金が貰えるからといってもやってはいけないことはある。それを知るのが利口な人間である。知らぬは愚かなる人間だ。遊ぶ金欲しさに身体を売る少女しかり。バカがそれをやるのか、やるからバカなのか、どちらも同じことだ。

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