Quantcast
Channel: 死ぬまで生きよう!
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

結婚した悔い、しない悔い ⑤

$
0
0
「なぜ結婚するのか?」は命題であろう。「なぜ結婚したのか?」は後悔であろう。「結婚して良かった」は感謝であろう。などと思いを述べてみたが、「なにも考えずに結婚した」という知人がいた。本当に何も考えずに結婚できるか疑問だが、彼はこんな風に話した。同じ市内に出会って間もない恋人がいたが、他市に転勤を命ぜられ、「それなら結婚するか」となったという。

付き合い初めて1か月くらいだったというが、九州から東京に転勤になったことで、「何も考えないで結婚した」はそのことをいっている。結婚なんか考えてもなかったそうだ。円満夫婦のままに10年くらい経ており、同僚から紹介を受けての交際というから、いわゆるお見合い結婚のようなものだ。「もうアレしてたんか?」と聞くと、転勤を命ぜられたその日に結ばれたという。

イメージ 3

「ほぉ~」、なんとも微笑ましい話ではないか。真面目な二人だから勢いがついてドッキングを果たしたんだろう。転勤が二人に幸福をもたらせたのは間違いない。サラリーマンにとって転勤はつきものだが、業務の都合とはいえ、宮崎から東京まで動かしたいものか。とり急ぎ婚姻届けをだし、身内だけのささやかな挙式で済ませた。「なにも考えずに勢い余って(漏らして)の結婚」でも幸せになれる。

子どもはその時のベビーらしく、いわゆる中漏れ。重ね重ねお幸せな二人であった。彼はこの話を得意気に話すというが、確かにそれくらい価値ある逸話だ。「なにも考えずに結婚」というのは人の純粋さのあらわれか?ニーチェにこんな言葉がある。「『なぜ生きるか』を知っている者はほとんどあらゆる、『いかに生きるか』に耐えるのだ」。実より名に振り回される人間を揶揄する。

「生きる」の文字を「結婚」に置き換えてみると、「『なぜ結婚するのか』を知っている者はほとんどあらゆる、『なぜに結婚するのか』に耐えるのだ」となる。「命題」というのは真とは限らない。偽の性質をもつものであるということを知らぬものは多い。ならばいっそ自然のままに、なるがままに自由に生きるのがいい。ここに「幸福の法則」が隠されているのを知った者は幸運である。

確かに人間が純粋で無欲とはいいきれない。「策士、策に溺れる」ともいうが、真の自由者とは純粋な「生」の体現者ではないだろうか。『愛と青春の旅立ち』という映画のラストがそんなだったと記憶する。もう40年くらい前の映画である。青春期に観た映画でもっとも感動したのは、『追憶』(日本公開は1974年)であった。バーブラ・ストライサンドの主題歌と可憐な女性像が印象的だった。


イメージ 2

ストーリーは、理想主義な左翼思想に傾倒する頑固なケイティという女性と、政治的主義にとらわれない保守的で愛国者のハベル。信条が正反対の2人は大学で出逢い、卒業後それぞれの道を進んだ。二人はパーティー会場で再会し結婚する。ハベルはケイティの尽力もあって売れっ子作家になるが、信条・理念の違いが二人に亀裂を生む。ケイティはハベルに合わせることができない自分を悟る。

ついにハベルは離婚を持ち出しケイティは同意し、それぞれの道を歩む。圧巻のラストシーン、核廃絶運動に精を出すケイティは路上でビラ配りをしていた。ケイティを見つけたハベルが彼女の元へ、そこで再会を懐かしむように抱き合う。ハベルは妻と一緒だった。「素敵な奥さんね」とケイティは祝福する。ハベルも問う。「結婚は?」。ケイティは、「娘にとっていいパパよ」と嘘をついた。

決して負け惜しみではないのはケイティのはやる表情をみればわかる。ハベルへの想いを断ち切るためについた嘘である。おそらくハベルもケイティが独り身なのを気づいていたろう。ハベルはケイティのチラシを受け取ると、「じゃあ」といって立ち去る。ハベルの妻を気にもせず二人は寄り添い抱き合う。束の間の追憶の時。日本人ならこうはいかない素敵なシーンである。

映画のラストに胸が絞めつけられるのはなぜだろうか?郷愁?それとも共感?誰にも青春はあった。去りいくハベルを追うケイティの視線が哀しい。恋愛は発見である。人にはじめて無為の意義を教える。人は恋をすれば無理をして時間を作る。「忙しいから会えない」などはウソの恋、会わない口実。忙しさやあわただしさ一切を遮断する、それが恋というものだ。

イメージ 1


恋愛が発見の喜びなら結婚は何であろうか?結婚は人間形成の過程である。夫も妻も自分たちを育てあい開拓していく。互いに教え合い、学び合い、導き合いながら家庭を形成していく過程である。欠点を持ちあう同士が、欠点を持つ人間として結びついていく過程のなか、それぞれの欠点を長所たらしめる工夫こそが、生きる工夫ではないだろうか。その意味で夫婦とは言葉の生活である。

人間は病める存在であるように、夫婦も病める存在という自覚が必要だ。自覚も発見である。互いが病める存在と自覚すればこそいたわりあえる。理想の結婚、理想の夫婦、理想の家庭、そんなものはない。何気なく結婚し、夫婦と呼ばれ、普通に子どもができ、自然と家庭が生まれる。こういう考えに無理はない。日常生活の美化はできるが、普通のものを美化するそれを虚勢というのでは?

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>