自分のような年代の考えを若い人に持てというのは無理かも知れない。話して聞かせても頭に入らないかも知れない。だからどうすればいいかだが、結婚への憧れはあっていいが、同時に結婚に対する覚悟のようなものも必要。「いいことずくめではない」という考えを、どれだけしのばせられるか?若すぎる結婚は大変かもしれぬが、15で姉やは嫁に行く時代もあったわけだ。
速い自立を促された昔の少女たちは、遊ぶ時間も暇もなく必然的に"耐える"ことを学ぶ。過去の女性史にみる女工哀史や唐ゆきさんの過酷な世界、少女時代から強いられる子守や炊事洗濯などの家事労働は女性の宿命とはいえ、彼女たちには当たり前であった。現代女性に、「耐える」は薄れてしまっているが、こんにちのニーズで考えるなら、「耐える」ことは美徳ではなくなった。
現代女性は、「耐えなくてもいい時代」、「耐える必要のない時代」のなかで生きている。西川史子が離婚後にいった、「(お互い)人と暮らすのが得意じゃない」をどう理解するか?結婚は同じ屋根の下に他人が同居すること。気心が知れた家族の同居とはまるで異なる環境だ。したがって、「他人と暮らすのが得意じゃない」は、結婚に向いていないことを示唆する。
理想を抱く限り失望は当然にあり、失望したところからどう夫婦生活を続けていくかが求められる。「失望したから離婚」という昨今の風潮を変革するのは、無理というより不要であろう。人はその時代を生きるし、その時代しか生きられない。清少納言も北条政子も淀君も現代に生きられない。普遍的な人間の生き方が模索されるが、理屈どうりにはいかないものだ。
が、こういう考え方もできよう。清少納言や淀君が、今の時代に生を受けたなら、あの清少納言にも、淀君にもなっていないだろう。そこいらの有名進学校出のお嬢さんか、ヤリマン・タイマン女子になっていたかもである。あの時代に生をうけたからこそ清少納言として生き、淀殿として生きた女性である。人はその時代にしか生きられないし、時代もまた人を作る。
流行のコーデを楽しむ人がいて、流行を追わないトラディショナルな生き方を楽しむ人もいるように、女性が強くなった時代であっても夫を立てて支え、夫唱婦随を理想とする女性もいるが、「人間は長所と短所で成り立っている」を知るのは大事である。「あばたもえくぼ」の恋愛時代は善しとし、人間の欠陥や弱点は日常生活のなかの些細なことから現れるものだ。
「人と暮らすのが得意じゃない」という言葉には、「他人と融合・融和ができない」との意味が込められている。人間関係を上手くこなす人には様々な能力がある。一言で人間関係といってはみるが、多くの要素で成り立っている。「相手への洞察や理解」、「決定・決断の速さ」、「ブレない態度」、「状況判断ができる」、これ以外の要素や能力を持っている。
なかでも、「理解」はもっとも大切だ。人はいつも理解されたがっている。だから理解されると喜び、理解をくれた人には好感を抱く。会社の上司であれ、親であれ部下であれ、あるいは同僚であれ、友人・知人であれ、「理解を示す」だけで人はついてくる。人には必ずといって、他人に踏み込まれたくない領域がある。そういうところも理解して対処するといい。
恋愛は誤解といい、結婚は理解というが、後者は同じ屋根の下に住むもの同士のイロハの「イ」であろう。そうはいっても、他人の言葉も心も理解できない人がいる。人間の能力は高い順に、創造力、読解力(理解力)、記憶力とされ、上の二つに比べて記憶力は重要ではない。何を言おうが示そうが理解できない人がいる。自分のこと以外はまったく見えない人間である。
こういう人間を、「真正バカ」と捉えている。彼 (彼女) らは他人の言葉が耳に入らない精神障害を患っており、自分を理解せよと躍起になり、相手にも指図をする。最近、この手のバカと絶縁をした。身内であるが、バカに身内も他人もない。身内だから許容すべきという論理はない。他人に許せぬことは身内も同じと考えれば、他人に厳しく我が子に甘い親にはならない。
バカとは拘わらないようにすべき、だから絶縁が大事。少々のことは許容できるが、自分のことしか頭にない超絶自己中人間とは関係を切るのが正解である。50代の夫を持つ妻がこんなことを聞いた。結婚20年になるが、最近夫はバカではないかと思い始めたという。とある会社に長く勤めて生活は安定して、家庭内外においてこれといった不満は特にない夫のようだ。
ところが最近妻が何をいおうと、「あ、そう」とだけ答えるという。不機嫌というわけでも、文句をいうわけでもない。張り合いのない妻は、「主人はバカなのか?」と思い始めたという。「あ、そう」は天皇陛下の言葉である。おそらく夫は、夫婦生活や家庭生活の一切を現状のまま肯定し、これ以上どうもなるものではないという諦めの極致に到達したのだろう。が、妻にはいわなかった。