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「競争心」

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「闘争」と「競争」は似て非也?いや、似ていない?それぞれ人の感覚だろう。「屁」と「おなら」は現象的には同じと思い込んでる人は多いが、実は意味が違う。「すかしっ屁」というように、「屁」とは音ナシの構え。「おなら」とは「鳴らす」の連用形の変形に女性言葉の「お鳴らし」が詰まってできた言葉だから、文字通り「鳴る」、つまり音の出るやつを言う。
 
何でも「お」をつければ女言葉(=丁寧言葉)になるからと、「尻」を「お尻」というのはいいけれど、「屁」を「お屁」とは言わないだろうし、奈良の大仏を「お奈良の大仏」とは言わんだろう。どうしても「お」をつけるなら、「奈良のお大仏」だ。「おま○○」という言葉は「お」をつけることで丁寧語になっているのだろうか?我々は一字へつって、「ま○○」と言うが…。
 
わざわざ伏字にすることもないし、「おまつり」といえばいいのに、何で伏字にしたんだ?自問してしまった。屁はおならのように音を立てるのは、実は礼儀に反しているらしい。しかし、括約筋を微妙に調整して、音を出さないようにするのは、なんだか卑怯者のように思う。香りは整腸具合によるから仕方ないが、すかして自分ではない顔をするのは根性悪だ。
 
気性のよいやつは、「おなら」を出した直後に、「すいませ~ん、私です」という人間はいるが、すかして「すいませ~ん、私です」というのは聞いたことがない。実行者は心の中で(誰も気づきませんように…)と思ってるのかも知れない。彼氏や夫の前で平気で出す女がいるが、「でちゃった!」と本人の意識であるようだが、男は「出た」ではなく「された」と受け取る。
 
「出た」と「された」の違いは、被害意識であるかないかで、いうまでもない「屁をされた」、「屁をかまされた」、「屁をひられた」、「屁をこかれた」、「屁をぶっぱなされた」など、どの言葉も被害意識である。例外的な母親の洗礼をうけない男の子は、こどもの頃から「女性は屁をしないもの」という意識になっているし、だから「された」という意識となる。
 
どれだけ深刻に感じているかは、ネットの悩み相談の多さをみればわかる。一例をあげると、「妻がとうとう俺の前でオナラをしました。ショックです。結婚3年目、俺38歳、妻27歳、職場で出会いました。料理も上手で上品で綺麗な妻です。ある日晩酌しながらDVDを一緒に見ていた。何かを取りにいこうと妻が立ち上がった時に映画の効果音とは違う全く違うある音が…
 
「ブ~」。俺は終わったと思いました。プーなら許せるがブーはひきます…それから妻の顔を見るとあの音を思い出す。(中略) 女性のオナラを初めて聞いたショックは大きい。いつか忘れられる日がくる?上品な妻から屁こき妻に変貌…。悲しくなります。それから二週間、ぶっちゃけ夜の営みもない。出来るわけないです…今後どうすればいいでしょうか?離婚ですか?
 
やはり妻でも女性ですし女性として見れなくなったら終わりじゃないですか。そりゃオナラは誰でもするのはわかりますが俺の前で一生しない女性がいいですよね。ちなみにママは私はお父さんの前でした事ないって言ってました。結婚して30年、立派ですよね。妻はたった3年…、はぁ…、落ち込みますね。」
 
コレに対する返信はいろいろある。この男を嘲ようが笑おうが、ネットで公にした以上受け入れる責任がある。だから自分で考えりゃいいんだよ。人はみな思い思いに好きなことを言うだけだから。どれほど小さき問題でも、気にする者は気にするんだから、「そんな屁みたいなことを気にするな」と回答するものもどうかしている。そんなこと言ってすぐにできることじゃない。
 
自分もかつては相手の身になって回答したことはない。自分の価値観や、基準で言うわけだから、人にそれをいう意味は全然ないわけだが、最近は相手の置かれた境遇や心境を真っ先に考えるようになった。何かをいう以上は、それが先決だと気づいたのだろう。それでも結論は、「自分ならこうする」以外に答えようがない。つまり、相談は無意味であるということ。
 
さて、本日の表題は「競争心」である。クラシック音楽に"協奏曲"というジャンルがある。「ピアノ協奏曲」、「バイオリン協奏曲」、「クラリネット協奏曲」など、オーケストラとソロ楽器の共演だが、実は指揮者とソリストの協演とは言えない演奏も多い。まさに競演という感じで、いっそのこと競奏曲、競争曲とした方がよいのでは?と思えるくらい折り合いがついていない。
 
長いことN響指揮者であった岩城宏之のエッセーには、「今日はあるソリストとピアノ協奏曲の打ち合わせだ。最初にガツンと言っておかねば…」の記述もあるように、指揮者とソリストの関係は双方の解釈の違いから協奏とならない事がしばしばあった。歴史的に有名なのは、1962年4月6日、カーネギー・ホールでのバーンスタインとグールドのブラームスピアノ協奏曲である。
 
演奏前のバーンスタインによる演奏にまつわるスピーチがレコードにも収まっている。その中でバーンスタインは協奏曲にあっては、指揮者、ソリスト、どちらがボスなのか?という問いかけをしている。最終的には、従来の作品解釈とは違ったテンポ、強弱、協奏曲形式での独奏楽器のあり方のグールドからする提示を是としないもののバーンスタインはグールドの構想に付き従った。
 
バースタインはスピーチの最後を、「冒険精神にのっとって、これから演奏したいと思います。」としめくくっている。この手の協奏でない競奏は結構耳にしたが、30年くらい前に、外山雄三と中村紘子のモーツアルト『戴冠式』をFMで聴いたときも驚いた。ゆったりで始まったオケのテンポが、中村のソロが始まった時には、気が狂ったのでは?くらいにテンポが上がった。
 
ソロが始まればオケはソリストのテンポに合わせるしかない。折り合いつかないままでリハを終えて、中村は始めてしまえばこちらのものとの一計を案じたのだと解釈した。外山と中村は長年コンビを組んでおり、決して不仲と言うではないが…。有名どころでは、「チャイコフスキー:ピアノ協奏曲」のカラヤン&リヒテル盤が、競争曲に相応しい名演といわれている。
 
つまり、和気藹々の「協奏」よりも、スリリングな「競奏」の方が互いの良い物を引き出すという相乗効果をあげるのかも知れない。いい意味での演奏に緊張感が漲るということか。「競争」の対義語は「共同(協同)」である。競争が必要な場合も、共同で行う場合もあるから、どちらがいいという問題ではない。「協調」の対義語は「対立」で、対立=悪ということもない。
 
男女の対立、夫婦の対立、親子の対立、老若の対立はあるのがむしろ自然であり、対立を望まない人は収束が苦手なのだろう。収束に至らない対立もあるが、それは間違いなくどちらに問題があるはず。思考すれば道理は必ず見えてくるが、感情が災いして道理や筋道が見えない相手なら仕方ない。最近耳にしないが、かつて道理の分らぬ人間を「唐変木(とうへんぼく)」といった。
 
語源はいろいろ言われてるが、唐(外国)を差別した言葉のようだ。「競争」がもたらすよい面、「競争」からもたらされる悪い面、どちらも避けられないが、好むと好まざるに関わらず競争社会は現実である。本を一冊読めばシールを貼るとか、逆上がりや縄跳びの二重跳びができたらシール貼るとか、そういうのはプラスに働くが、競争を煽るという点で行われなくなった。
 
競争は大事であるけれども、「煽る」のがよくないというが、競争は煽らないと尻すぼみになるように思う。煽る、煽られないは個々の意思の問題であろうが、煽られることで失うものがあると言う事のようだ。ブログにおいても煽るの意図が丸見えで、煽られる人もマイペースな人もいる。煽られる人は他人の目に躍起になり、煽られない者は煽られる者を醒めて見ている。
 
スーパーのチラシや商店のバーゲンの看板に煽られる人も、気にならない人もいる。煽る人、煽らない人には人間性のちがいや根本的な考え方、性格が違うことはハッキリしている。他人によって動かされない人は煽られないと思う。自身は自身の意思で動く自分は、煽られないばかりか、煽ろうとする人やツールを醒めた目で捉えるから、その手には乗らんとなる。
 
プロ野球のゲームを観にいっても、コンサートに出向いても、動かずじっと観たり聴いたりするし、「みんなと同じにしないで恥ずかしくない?」と言われたときに、「みんなと同じにする方がよほど恥ずかしい」と返す。日本のプロ野球の、あの揃い踏み応援は異常な感じがする。メジャーの球場のようにあるべきと思うが、ここは日本だと言わんばかりのはしゃぎよう。
 
どの人たちも、割れこそは熱血なファンという暗黙の競争意識が感じられる。むかし、Xjapnのコンサートなど、われこそが「No.1」ファンなりと衣装などに半端ない金銭投資である。何もせずで大ファンもいるというもの。人はなぜシェアをするのか?シェアの動機は、「他人に教えたい」、「自分を表現したい」、「友人との関係性を維持したい」と考えられる。
 
上の動機を詳細にいえば、「人は良いものを見つけると、他人に教えたくなる」。「自分が何に興味があるのか、自分は何を知っているのかを表現することで、他人に評価して欲しい願望を満たす」。「情報を共有することで、友人との関係性を維持したい。同じものに感動し、熱狂することで、直接会う機会が無い友人とも親密な関係を維持したい」ということか。
 
競争心と協調心が複合的に混じったごく普通の行動といえなくもない。「競争心」の目指すものは人間の幸福ではないかと思われるが、人との競争に勝つことで得られる幸福も確かに存在するが、競争に勝つという生き方を手放して心を満たす生も、まちがいなく幸福を得ることができる。世の中を「勝ち組」、「負け組」に分けてなどは、完璧に社会に煽られている人。
 
自分などは、「勝ち組」、「負け組」なんて物差しって誰がつけたのかと笑ってしまいたいほどにバカバカしい。そういうは一過性でしかないし、人間は獲得したものにはすぐに慣れてしまうことを誰もが知っている。なぜ努力して手に入れたものに人間はすぐに慣れてしまうのか?逆境や不幸にも慣れて痛みを忘れるのも人間だが、こちらは生きていくためには必須である。
 
獲得したものに慣れる理由には大きく分けて3つの理由がある。一つは、外的条件が良くなると、その条件にあったように行動パターンを変えるが、これは遺伝子による支配と考えられる。次なる理由は、欠乏感にかられて何かを獲得するために成されるプロセスから生じる「高揚感」、「達成感」。言い換えると、獲得するまでの「高揚感」を追い求めているに過ぎない。
 
所有するものはすべて高揚感の副産物といっていい。したがって、獲得したものにすぐに慣れて、当たり前になり、新たな次なる目標に向かって高揚感を求めて突き進むのが人間である。どんなに美人の妻を娶っても、獲得したら別の女に目がいくのは、ごく自然なこと。それを抑制するのは、家庭を大事にしたい、妻を悲しませたくない、法を遵守したいという気持ちだろう。
 
節操のない男は、いかに絶世の美人妻を獲得しようと、他の女のパンツの中に興味を抱くが、節操という言葉を「目的」と変えてみると分りやすい。上のような婚姻生活に対する目標設定をすることが浮気の抑止力になる。まあ、人間は不完全だから、一時の気の迷い、過ちはあるけれども、妻がいたところで女の尻ばかり追いかけてる男は自制心以外につける薬はない。
 
もう一つの理由は、「幸せのアッパーリミット」といわれる心理。アメリカの心理学者ヘンドリックス夫妻は、「人は幸せでいい気分になってもその気持ちを持続させられない」と指摘する。幸せ気分でいるのも束の間、すぐに不安な気分に襲われるのが「幸せのアッパーリミット」。つまり、上限である。人は不幸なときに不満に思う。が、幸せなときでも不安に陥っている。
 
「勝ち組」、「負け組」などの言葉のくだらなさは、「勝ち組」と言われる人の行動を見れば分る。いつまでもそれに酔い、安住でいるわけではないのを見ればわかろう。1回勝てば永遠に勝ったわけでもないだろうに、人は生まれたときから勝ったり負けたりの人生を歩んでいる。生後6ヶ月でまるまる健康優良児表彰を受けた赤ちゃんが拒食症で死んでしまったとか。
 
脳内麻薬といわれるアドレナリンを分泌して興奮したい人間を、競争好き人間と言う。競争相手としか争わない「競争心」よりも、共認の妨げとなる自我や自己中など、闘う対象が相手ではなく内なる自分の「闘争心」がいいのかも知れない。外的条件ばかりを求め、それで高揚感は得れるけれども、実は不幸になることもある。外的条件による幸せはもろく、空虚を孕んでいる。
 
1996年、NHK連続朝ドラマ『ふたりっ子』は、双子の姉妹の対比を描く。目標をプロ棋士という内なる世界を追い求める香子、秀才で京都大学を卒業した姉の麗子は、求めるものを外側に置いた。脚本の大石静は言う。「虚飾の世界に生きる姉、汗と泥にまみれた世界に身を投じる妹。私の幼少期はまさに姉の麗子で、自分自身へのアンチテーゼとして麗子を描きました」。
 

 

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