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Channel: 死ぬまで生きよう!
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主体的に生きる

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2月9日~11日の3日間、九州・長崎へと家族で旅行した。家族といっても自分と妻と長女と孫(長女の長男)の4人で、ハウステンボスから始まり、グラバー邸やらランタン・フェスティバルから世界遺産の軍艦島。帰りは佐賀県・吉野ケ里遺跡を巡って博多から新幹線で帰路というコースだった。が、長崎は今日も雨、人も多すぎた。名所旧跡は行けば行った、行かねば行かずでどうということない。

現に地元人が地元の名所旧跡に訪れることはない。早いもので孫は今年の新学期から高3となるが、人が成長するほどに自分は物故に近づいている。この時期男の子は親と会話をしなくなるものだ。ところが親は、乳幼児期~学童期の可愛い盛りの思い出が消えることはなく、いつまでも子どもに纏わりつきたい、役に立ちたい、必要とされたいの気持ちが消えない。

だから子どもに迷惑がられる。子どもの成長と共に子ども時代の小さな服やランドセルや教科書などの学用品などは不要なものになってくる。普通は捨てるが執着心の強い親は残しているという。それもどうかと思うが、いらなくなった物はドンドンと捨て、同様に過去の思いも捨てる。そうすることで、子どもの成長に合わせた正しい寄り添い方ができるのだ。

母親というのは、自らが産んだ子どもとの連帯感がどの程度のものか、男親には分からないものだが、無用な執着心や連帯意識は自立の妨げになろう。人間が人間に対する善い事とか悪い事とかは、天が決めたことではないし、人間が決めたことである。だから当然ながら善悪は人間によって異なる。依存を善しとする親も、依存を善しとせぬ親も、個々の親である。

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親は子どもとの関係において、もっとも抑制をせねばならない。そのためには、子ども一辺倒から離れ、子どもを生きがいにせぬことが抑制ではないかと。こんなことは分かってはいてもそれができない、それが母親というものなら、子と親の断絶は目に見えている。子どもにとって日々の行動が自分の生である。遅く帰ろうが徹夜で何をしようが自分のしたい事。

それに口を挟む親がどれだけ子どもにとって迷惑なことであるか。「子どもをよくしたい」、せめて、「世間並みの子どもに」と願うことで、母子はどんどん乖離をしていく。母親の、「良心」などは子どもにとって無用でしかない。親の子どもに対する、「良心」というのを別の視点でみると、妬み、嫉妬、やきもち、欲というものの別の表現ではないかと思われる。

家族の良さはホンネ世界にある。こんな風に孫にきりだす。「万引きしたことはあるか?」、「ないよ」、「なぜやらないんだ?欲しいものが目の前にあるだろう?」、「欲しくても万引きまではしない」、「友達でしたやつはいるか?」、「いるよ。自分の目の前でやった奴もいた」、「そうか」、「でも、返させた」、「そうか。そいつに恨まれなかったか?」、「恨まれない。そんな奴じゃない」。

「お前が止めろっていって止めたのなら悪い友達じゃないな」、「悪い奴じゃないよ」。「お母さんはお前の友達について、あれこれ口出ししたりしないか?」、「しない。そんなこといわれたことない」、「それならいいお母さんだな。爺ちゃんはいわれまくったからな。でも、仲良くするなといわれた奴とは余計でも仲良くしてやった。親の決めることじゃなかろうという反発だ」。

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「男は主体的に生きた方がいい。まだ死なないけどこれが遺言だ。主体的って分かるか?」、「何となく」、「自分の運命とか将来とかを親や他人まかせにしないこと。自分が自分の責任者になるということ。何事も自分で決めて自分で責任をとる。世の中はそういう仕組みよ。人を殺せば死刑にもなる。何十年も監獄に入れられる。そうしたいならすればいいのよ」。

旅行の良いところは移動中の時間に相手といろいろ話せるところ。特に家族旅行というのは、会話をする大切な時間であるが、「スマホなどをいじくりって親と会話をしない子が多い」という声がある。それは仕方のないことだ。スマホ依存症なんてのは子どもに限らない。電車に乗り込んだかというように大人がスマホを出す光景をみるに、何がしたくてそうするのか事情がよく分からない。

携帯電話が市場に出始めたころに驚いたことがあった。それは若者が吉野家で牛丼を食べながら携帯で話す光景だ。こいつらはメシを食いながらでも電話で話したいものか?日本家庭は食事中に喋るなどを行儀の悪いこととされたが、欧米の食事は団欒であるから、会話が飛び交うのが普通だった。しかし、携帯は食事中の会話を可能にし、それが今は当たり前になった。

携帯はクソをしながらの電話も可能にした。かつてはあり得ない異様な光景(といっても目にするわけではない)だが、今は隠すどころか平気の塀座で、「あたし今トイレにいるんだけど」などという。恥も外分もない言葉というより当たり前の会話である。「当たり前」というものが、いかに時代とともに変容するかだが、人には変えたくない「当たり前」がある。

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