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Channel: 死ぬまで生きよう!
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主体性の拠点(ありか)とは…

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昨今のような情報過多の最中にいること、で様々な情報に左右され影響を受けやすくなる。樹木希林がどうの、フィフィがどうの、村本、百田、橋下に、イエ~ス高須クリニックと、頻繁に顔を出す彼らの小言は嫌でも目に入る。こうしたことが昨今の情報錯綜の時代といわれるゆえんである。我々の若きころは、本を手にすることで思想体験をしたが、我々世俗の末端人間の愚論が乱舞する時代にある。

煩雑な個人の考えは人を耳年増にするだけで、正しいものが何であるかが不明瞭にならないか?そんな危惧を抱く。自分は孫にいった。「主体性を持て」と。16歳の彼は紛れもない情報錯綜社会に生きている。身内である祖父の、「主体性を持て!」という言葉すら、彼にとって主体性というより情報に過ぎない。が、昔も今も身内の情報だけはもっとも身近にあった。

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身近であっても、決して「正しい」ということではないし、親は子に常に正しいことをいうわけではない。それでも親は自分が正しいと思っている。そうした中で子どもが正しい考えを身につける方法は?おそらく読書であろう。読書は広い視点を身につける。所詮、人間は井の中の蛙である。人は誰もまっすぐ正しい道を進むのではない。人間を人間にするのは、親でも教師でもなく自分である。

正しさとは何かと格闘してゆく。が、「これが正しい」を流布するもっとも安易な方法が宗教ではないか。宗教には正しい考えや側面はあるが、「宗教はアヘンである」というのも事実である。思想と宗教には大きな違いがある。「思想家と宗教家とどう違う?」こんなやり取りを過去にした記憶がある。どんなことを言い合ったかの記憶はないが、当時の自分たちは20代前半のひよこだった。

今ならこんな風に説明できる。思想家は、「影響」という種をばら蒔くが、宗教家は「洗脳」という実をかじれという。いうまでもないキリスト教は押し付けの宗教であるが、数多の人の考えで構築された思想に押し付けはなく、選択は自由。もし何かの宗教を選んだ場合、その後における自由はない。キリスト教にとっての自由とは、聖書に従って生きることである。

だから怖いし、だからマルクスは、「宗教はアヘンである」といった。が、絶対的真理の中に身を置くという自己満足の世界である。宗教者と無神論者にあっては自由の意味も内容もまったく異なっている。宗教に毒の部分があるように、思想においても毒はある。なぜなら、あらゆる偉大なイデオロギー (観念体系) というのは、その根底において主観的であるからだ。

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マルクス主義とは、マルクスの思想が基になっているが、彼の思想の本質は、疎外された労働者に視点をあてて人間の疎外を論じたことにある。人間にとっては何よりも労働が本質的であるとし、労働における人間の疎外を取り扱い、その本質的な労働を疎外する資本主義を批判した。したがって、労働が人間にとって本質的なものであるとの考えがマルクスの人間観である。

『資本論』を著したマルクスは、経済学から研究を始めたのではなく、彼の出発点は哲学だった。同じように、フロイトも当初は幸福とか苦悩について思考を始め、やがて大きな思想体系へと進んでいく。彼らはその発想のユニークさにおいて優れた思想家であるが、マルクスもフロイトも、やむにやまれぬ自身の問題解決のために、経済学や心理学を始めたのではないか。

E・H・カーは『マルクス伝』のなかで、「マルクスは誤っているが、彼の思想は残るだろう」と述べた。マルクス主義を攻撃したマックス・ウェーバーは、12歳でマキャベリの『君主論』を読むほどに早熟だった。彼はその後、スピノザ、ショーペンハウエル、カントに進むが、少年時代にはシャルロッテンブルクの家で読書に多くの時間を費やした。なぜにウェーバーはマルクス主義を攻撃したのか?

その理由は、マルクス思想の基礎が主観的であるにもかかわらず、客観的普遍妥当的なものであるがごとく説いていたからである。科学的社会主義をお題目に説いたマルクス思想に対し、科学的判断という価値からの自由をウェーバーは要求した。つまり、科学的判断は正しいという主張に対し、科学外的な規準を考慮に入れることこそ正しい科学的判断であるとした。

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科学万能といわれる近代社会において、科学と信仰をを区別するものは何か?宗教が多くの人に評価される社会において、科学的判断と評価的判断はすっかり切り離すものではなく、双方は距離をおいて保持されるべきもの。宗教的・霊的なものは科学の対象にあらずと排除するではなく、科学的に証明されないものをあえて意識的に、明瞭に指摘し、考量すべきであろう。

無神論者は有神論の、有神論者は無神論のスタンスを共存させる必要がある。英知ある人間としての我々は、科学的≪客観性≫を目標としながら、あえて我々がなし得ることは、≪主観性≫を減少させるというバカげたことではない。科学的真理という価値に対する信仰が、"特定の文化の所産"であって、自然に与えられているものではないことは紛れもない事実である。

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