「高校生が売春をする」。このことは珍しいことではなくなった。「援助交際」とか、「パパ活」とか、こういう言葉はおそらく彼女たちが生み出したに違いない。売春という言葉をオシャレな語句に変えれば売女でないと思いたいのか、言葉を変えたところでやってることは売春である。いかに正当化をしようとも愚挙は愚挙。やることが幼い。バカな少女はバカであるのは変わらない。
かつて赤線で体を売る女たちは綺麗事をいわない。彼女たちは売春婦、娼婦、パンパンといわれながら身体を張って生きる女の強さ、自覚をもっていた。それに比べて、「援助交際」だの、「パパ活」だのと称し、悪気もなく体を売る幼い少女たち。かつての売春婦たちと女子高生たちの大きな違いは、生活をかけていないこと。だから、嫌々強制されてやるのではなく、自らすすんでやっている。
親が知れば驚くだろう。自分の生徒なら嘆く教師もいるだろう。が、問題なのは売春高校生たちにとっての自意識である。彼女たちにとって、親も教師も尊敬の対象でも何でもないばかりか、バカ親だったりうざい教師だったりと軽蔑の対象になっていることだ。さらに驚くべきは、彼女たちを買うおじさんたちは、女子高生にとってみんな「いい人」だったと補導された後に述べていること。
こうしたことは、現代の少女たちの、「腐敗堕落」のほんの表面的なこと。これらをどう解決すべきなのか。バカな行為を写メってSNSに乗せる男子高校生などカワイイもの。売春は身の危険というリスクを伴うが、少女が売春に走る理由は大きく分けて二つある。お金が欲しいと性への目覚めであるが、女のズルさは、その両方を叶えられることを知ればどうにもならない。
思春期を迎えた少女は発情期のメス猫であり、変革期におきる現象の必然性と価値観が大きくかかわってくる。メス猫を飼うと分かるが、発情期のメス猫はどうにもならない。手に負えないからと避妊手術をする飼い主もいるが、理性の抑制もきかず、欲望が抑えられない少女たちである。「やれてお金ももらえて一石二鳥、こんないい事はない」と、これがバカ女の論理である。
変革期において価値観の教育は不可能。よって自制心に委ねるしかない。売春に走る女子高生がどんなに親をバカにしようと、その親の世話になって生活をし、それでいながら身体を買う他人を、「いい人」だという。この救いようのなさは如何ともし難い。「いい人」の他人と、うざい親は対等な立場にはない。が、物事を解決するためには何事も対等な立場でなければならない。
この状況を対等にするためには、彼女たちは一切から捨てられることだ。バカにする親から捨てられ、お金をくれる、「いい人」からも捨てられる。そのうえで彼女たちがどう身を案じどのように生きるかである。その時はじめて、彼女たちの価値観の真価が問われよう。以前、ネットである女子高生から相談を受けたことがある。中学生から高校になったばかりの、それはそれは幼い少女だった。
印象でいえば、思考ゼロ(何も考えていない意味)の小学生くらいの幼稚さであった。相談というより、誰かに現状を聞いてもらいたい感じだ。中卒でクルマの修理工の16歳の男の子が彼氏という。彼女は男のアパートに出入りしていたが、男の子は一緒に住もうといいだした。彼女はそのことを父親に話したところが正直で幼い。それに対して父は、「家を出て彼氏のところに行きたいなら行きなさい」。
決して投げやりな言い方ではなかったようだ。父子家庭の彼女は父親が経営する小さな居酒屋でお手伝いをしていたが、彼氏の要求への対処を迷っていた。自分が中卒だからか、彼氏は学校も止めて家に来いという。父は学校を辞めて家をでるならお店の手伝いも拒否の姿勢。話を聞きながらこの父親の毅然とした態度に半分驚くも、まったく引き留めようとしない父の真意を探っていた。
薄々感じたことは、娘に終始優しく接する態度の裏には、娘の性格をハッキリ読み取っているなと推察した。落ち着いて達観した父はとてつもない原体験を背負っている人だ。普通なら狼狽えて当然である。しかし、彼女の内心は学校にも行きたい、父の手伝いもしたいが、彼氏に逆らうのも悪いからと決めかねている。要は、「ノー」がいえない優柔不断の、いい子ぶった少女である。