学者を「学者バカ」というのは、「専門知識はあるが一般知識のない学者」のことを揶揄していうのだろうが、こんな言葉にむかつく学者は研究熱心な学者ではないのかも知れない。ひたむきな学者にとって、「学者バカ」という言葉は、気にすることもなければ傷つくことも、何の痛手もないものだろう。興味のないことにかまけていられないのがホンネだろう。
学者ではないが自分にもそういうところは多分にある。興味のないことは100あるうちの1すらも知らないことはある。例えばスマホについての知識はゼロ。ツイッターについても同様だ。これらは一般常識といわれるものかも知れぬが、どちらについても自分はバカである。携帯カメラを一度も使ったことがない。使おうとはしないのは、デジカメを所有するからだ。
携帯でメールを打つようになったのはほんの数年前だった。今でも必要なとき以外携帯メールはやらない。「スマホはパソコンを持ち歩いているようなもの。それくらい便利」などというが、パソコンを持ち歩きたいと思ったことがない。携帯電話も持ち歩かない。「時代遅れ人間」は「学者バカ」と同じ意味であっても、時代に遅れても何にも困らないのは楽でいい。
パソコンは自宅の所定の位置に、電話も同じようにそこに置いてあれば何にも困ることがないのは、携帯やスマホを必要とする活動をしていないということだ。もはやこの年で活動範囲なんか狭くて充分である。高齢者が新しい物オンチであるのは時代の常だが、それで困らないのも年寄の特権である。情報なんかに左右されても脳を無理強いするだけだ。
知らないことを恥じることもない。時代オンチであるのを引け目も感じない。どちらも楽しめるもの。ネガティブなことを楽しめるならそれはポジティブである。貧乏なら貧乏を楽しめばいい。アラフォーであれ、アラフィフであれ、独身を楽しむ、バツイチを楽しむ、何でもカンでも楽しむことはできる。そういう人間で在るべきではと思うが、楽しめない人は引け目を感じることになる。
難しくいうなら、「自己の主体性をどう貫くか!」であり、それは人間性を貫く喜びでもある。宗教や文明の利器に惑わされず、自分なりの生活感覚を持つことでそれが可能になる。人は何のために生きるかを模索し、見つけ、それを人生の意味などという思想家もいるが、無理に従うこともない。思想家より、自分の考えで楽しむ方が断然幸せならそれでいい。
誰に背こうとも、自らに背かぬ人間こそ、「(自らを)生きた!」といえるのではないか。して、人間にとっては、「自らを生きる」が何より大切ではないか。自分くらいの年になってやっとこ辿りついた境地である。それでも升田幸三の言葉を借りるなら、「辿りついて未だ山麓」である。この言葉は、彼が当時の将棋のタイトルをすべて手中にしたときに発されたもの。
「地位や名誉のために生きるのではない」と、そのように解釈をしてみた。やはりというか、人生は楽しむためにあると、凡人なりの生き方を見つけたのかも知れない。好んでというより、なるべくしてなった凡人なら、凡人らしい、凡人に合った生き方があり、それを見つければ余生も楽しめよう。「もっと前から…」はできないが、どの年齢にあっても大事なのは未来である。
ブツブツと文句をいいながらも結局は、慣れた安易なことをするのが人間だ。ならば、せめてブツブツ文句はいわないでおけばいい。さらに気をつけておくべくは、自分のやっていることを立派であるとか、道徳的だとか、何とかだとかいうのだけはやめたいものだ。フィフィがツイッターで失態を演じたようだ。彼女が悪口ツイッター好きなら予想された事象である。
無芸タレントの彼女が、ネット世論に受けることを芸能界に生き残る手段にしているとみていた。フォロワーを従え、私の客観的な意見って鋭いでしょ?すごいでしょ?との自己満に浸るも、いってることは薄っぺらいただの傍観者が上から目線でしゃべってるだけというのがありありだが、彼女を正義の使者、御意見番の権化みたいに崇める信者こそが底の浅い人間である。
今回で呪縛が解かれるならいいが、若者は人の尻馬にばかり乗るのを止めて、自己の主体性を確立させて欲しい。フィフィはローラが政治的発言をして騒がれた時、「批判があるのも覚悟で発言すべきだし、何よりそれだけの影響力を自負して発言をするならば十分に勉強した方がいい」などと、口幅ったいことを言っていたが、自分には化けの皮をかぶったサルに見えた。
あれほどのデマを拡散させておきながらこの醜態は見苦しい。あたかも正論に酔う人間にありがちな、「自分は間違わない」という自己の驕りが、誠実な謝罪すらもできない。あげく、「凄いファンレターが届いた…30枚くらいあるけど、すべて読ませて頂きますね。応援ありがとうございます」。などと信者を拠り所にする発言も醜い。なんという浅ましくも羞恥な人間であろう。