ツイートの言語的な意味は、《小鳥がさえずる》であるらしい。それがツイッターにおいて、ごく短い文を投稿することに充てられる。または文そのものを指すの意として使われたが、日本語版サービスの提供開始時には、「つぶやく」という言葉が充てられた。一日に何度もツイートする人がいる。やりたい人の勝手、やりたい人の自由であるが、こういうことは際限なく可能となる。
早いものでブログを始めて13年と4か月になる。今は日課の一つとなっているが、ブログをやることで決めていることは、一日一投稿を頑なに守っている。記憶の限りでは一日二投稿が一度だけあった。何か大きな事件だったか、その時も一日一投稿を自ら破ることにかなりの抵抗があった。人間は自ら決めたルールを自ら破るなどは簡単、誰からも咎めを受けないが自分はそれを許さない。
自ら決めたルールを自らが守らなければどんな理屈を持ち込んで正当化されてしまい、結果的に自分を甘やかすことになる。自分に甘えてしまうことが自分に許せない点である。他人の拘束を受けるのを嫌う自分である。ゆえに、自らで自らを拘束する必要がある。自らの都合で簡単に破る規律など規律とは言えない。それを自らに課している。それが自分の望む人間だからだ。
ツイートが嫌いなのは、自分には小言のように聞こえるからだ。小言で連想するのは母親である。彼女の小言は毎日毎日うるさくて仕方がなかった。よくもまあ、ああしたことが毎日いえるものかと。ツイートが小鳥のなく声の意であれ、小鳥の囀りはうるさく耳障り。だから小言の羅列ごとき他人のツイッターは覗かない。橋下徹のツィッター引用も他人の引用を拝借した。
「男は小言などいわない」。というのが自分の男観であり、小言をいう男は好きでない。大事なこと、ここぞという時に身を乗り出すことはあっても、普段はピーチクパーチクとヒバリじゃあるまいに、だから男は寡黙でいい。自己の批判と他人批判は別だが、ともすればそうなりやすい、だから他人の自由を束縛せぬよう気をつける。人は自らの善を全体善とする傲慢さが隠されている。
同じように自分の悪が全体の悪となりやすい。それらを思考し、分離しておく必要がある。さもなくば、人に物事を押しつけがましい傲慢人間となろう。若いころの自分はそんなだった、だから反省の意味もある。スマホを持たない理由など考える必要性はなかった。単純に不要だからで、それが十分すぎる理由。スマホに限らず携帯電話も家族の連絡用にと贈呈されたもの。
外出時には持ち歩かないので時折家族からお咎めを受けることがある。大した用事でもないのだからと、お咎めは聞き流しているが、唯一最大の失態は、叔父貴の突然の訃報連絡を受けられなかったこと。葬儀には間に合ったが、心から慕っていた叔父貴だっただけに残念であり失態と感じた。スマホを持つことなど、自慢でも何でもない当たり前の時代の昨今である。
持っていないことが珍しいのか、「なんで持たない?」などと問われることもままある。携帯を不所持だったころもよく言われた。当時は持たない理由を、「行方不明になれないから」などと返していたが、叔父貴の訃報は行方不明が祟ったのだろう。今回も孫に、「じいちゃんは何でスマホを持たないん?」と聞かれ、「スマホの奴隷になりたくないから」と答えた。
これは9割くらいはホンネ発言である。孫には言うが他人にいわない理由は、スマホ所有者に対して失礼極まりないと思うからだ。自分が持たない理由は、自分だけが所有すればいいことで、棘になる言葉を他人にいう必要はない。「スマホは便利だよ?」と所有者はいう。「どこが便利?」と聞くと、「外にいてもカープの中継が観れる」と、ご満悦カープファンは少なくない。
ファンにとっては便利だろうし、自分も広島県民的カープファンであるから試合結果も試合状況も気にはなる。が、自宅にいる時はかかさず中継は観るが、外出時は観れなくて残念ということはない。外出中は観れなくて当たり前の意識でいる。その不便さを解消するのがスマホであって、スマホを持つ合理的理由は理解する。ただし、不便と思わぬ自分である。
だから便利を持ち歩きたい欲求はない。ない物がないのは自然なことと受け入れ、だからないものねだりをしない。日常生活では無意識に便利なものに頼って生きているが、不便を楽しむところもある。都会の喧騒から逃れて田舎暮らしをする人の基本はそうであるという。長崎旅行中の10日、将棋棋王戦第二局のネット中継があったが、在宅なら終日観戦をする。
が、自分は旅行中なので観ることはできない。それが自分にとって自然なこと。帰れば結果を知ることはできるから、情報を急いで得る必要はなく、そんな昔の生活に不満を感じない。情報は早い方がいいのだろうが、待てないこともなく、待つ楽しさというのもある。現代人は急ぐことばかり頭にある。「スマホの奴隷になどならない」と孫にいった本当の意味は、「情報の奴隷になりたくない」である。