ふと、エッセイなるものを書いてみたいと思った。エッセイ(仏: essai, 英: essay)とは、随筆・随想のことでエッセーともいい、自身の体験や読書などから得た知識をもとに、それに対する感想や思索や思想にまでのぼりつめた散文をいう。エッセイは文学における一形式だが、文学的であらねばということもない。文学である・なしは才能の問題ということになる。
人は人から遠ざかりたいために旅に出ることがある。自己を忘れたいために旅に出ることもある。時に人は孤独を求めるのだろう。時に人は過去の自分を埋葬したくなるのだろう。人は母胎から生まれただけでは人間にはなれない。もう一度生まれ変わること、つまり再生が人間の生なら、旅はそのための受胎なのだろう。行く宛のない旅は、自殺の代用となることもあろう。
家庭は宿舎でなければならない。生活に疲れて旅立つ人の憩いの場は家庭以外の宿舎かも知れない。いつもとちがう宿舎にて、いつもとちがう寝具に身を纏うとき、不思議な解放感を味わうことがある。小さな駅の田舎町の小さな宿舎も疲れた旅びとの憩いの場となろう。旅びとをいたわる習慣というのは人間の習慣の中で美しいものではなかろうか。それで旅びとはいっそう癒される。
「田舎町の小さな駅が好き…」。都会人から耳にする。急行列車も止まらない、黙殺されたそんな小さな駅の、ペンキの剥がれた小さな柵が旅びとに不思議な趣きを与えてくれる。柵のない線路の中に入って、ほんの近くから列車をながめながら乗客に手を振った。乗客もまた手を振って返す。通り過ぎる列車の車両の数を数えるのも何気ない子どもの遊びだ。
私の記憶に今もかすかに残るのは、馬が荷を曳きながら道路をカポカポと歩く、そんな時代だった。馬にはなぜか鈴がついていて、カポカポ歩くとリンリン鈴の音が鳴る。そんなシーンはまさに劇場のようである。「心を起こしたいなら、まず身を起こせ」という言葉がある。旅とはなにより身体を動かすことだ。身体を動かすことで心は方向を得るし、形も与えられる。
旅の一義的目的というのは、身体を動かすことなのかも知れない。そのことで思想の蕾が膨らむのか。人生を旅とみなし、人間を旅びとと見ることがある。確かに人生とは長い旅かも知れない。人生の重要な観念は「道」であろう。フェデリコ・フェリーニに『道』という作品がある。旅芸人のザンパノは芸の手伝いをする女が死に、姉妹であるジェルソミーナを買い取った。
買い取ったといってもただ同然だった。粗野で気の荒いザンパノ、ジェルソミーナは頭が弱いが素直な心の持ち主。そんな二人は旅回りの道化を披露して生きている。ジェルソミーナはそんな新しい生活にささやかな幸福さえ感じていたが、ザンパノの態度に嫌気が差して街へと逃げていく。そこで陽気な綱渡り芸人に出会う。綱渡り芸人はザンパノと旧知の仲だった。
綱渡り芸人はのいるサーカス団に合流するもザンパノとちょっとしたことでいがみ合い、ザンパノは逮捕される。綱渡り芸人はサーカス団から追放され、ジェルソミーナから去っていく。後日、自動車を直す綱渡り芸人を見つけたザンパノは、彼を撲殺する。綱渡り芸人の死に放心状態となったジェルソミーナは、泣きがら彼のそばから離れようとしなかった。
ザンパノは役に立たなくなったジェルソミーナを見捨て、置き去りにして去ってゆく。数年の時が流れ、見知らぬ海辺の町に立ち寄ったザンパノは、耳慣れた歌を耳にした。ザンパノがたずねると、ジェルソミーナと思われる女が、しばらくその海岸を放浪していたが、誰にも省みられることなく死んでいったという。それはジェルソミーナがよくラッパで吹いていた曲だった。
海岸にやってきたザンパノは絶望的孤独感に打ちのめされ、ひとり嗚咽を漏らす。ザンパノの後悔とは何なのかを考えさせられる。難解な作品で知られるフェリーニの描くザンパノは悪の化身のような男で、愚かな行いを繰り返すことで残酷な結果を突き付けられて傷つき汚れながら歩んでいく。道を進むとは、そういうこと以外になと、ザンパノの背中がそれを語っている。
ザンパノのような人間ですら人の人生である。そんなラストシーンの肯定感は衝撃的。まさに、「後悔だけが人生」である。後悔なき人生はない。ザンパノも、ジェルソミーナも…、おそらく。ジェルソミーナ役のジュリエッタ・マシーナは、フェリーニの愛妻だ。ジュリエッタはインタビューなどで、「気難しく気性が激しいのは、監督ではなく自分です」と、フェリーニを庇う語り口が印象的。
1992年にアカデミー名誉賞を贈られたフェリーニが、永年の伴侶、妻ジュリエッタ・マシーナに感謝をささげる光景がテレビに映し出されていた。半年後、フェリーニは世を去り、ジュリエッタも5か月後にあとを追うように亡くなった。映画とともに、ニーノ・ロータになる名曲の誉れ高い、「ジェルソミーナのテーマ」のトランペットの乾いた音色が、脳裏に鳴り響く。