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ホンネとタテマエの交叉

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「ホンネとタテマエ」はいい意味でいわれないことが多い。もっとも、世界中どの民族・人間であれ、服を纏って生きている以上当たり前の行動と思われます。ホンネだけで世の中を生きて行ける筈がないし、タテマエだけで生きると自己分裂をきたすのではないか。自分も若いころは、「偽善への反発」もあってか、ホンネ主義だけが正しいと考えていた。

しかし、年齢を重ねるにつれ、これまでホンネでどれだけ人を傷つけたかなどが思い出される。あの時もそうだった、あの場合もきっとそうだったと、当時は考えもしなかったことを考えるようになる。苦悩する人を見て、頼まれもしないのに、激励したりすることも多だあった。一茶に誰でも知るであろうこういう句がある。「痩せ蛙負けるな一茶これにあり」。

どういうところから生まれた句かは知らぬが、痩せ細った蛙を見て、頑張れと応援する様子が伺える。おそらくこういうことを正しいという見方が一般的だろうが、別の見方をすれば、「正しいことをいういやらしさ」という感じもないではない。現に人からこんな言葉を投げかけられ、「同情も応援もいらない。ほっといてくれないか」という人、感じる人もいるだろう。

アメリカのある黒人指導者はこういった。「腹の立つことは山ほどあるが、白人どもの慈善行為ほど腹の立つことはない。あれは信心ぶった偽善行為だ。彼らは『私は正しい信仰をもっているが、お前にそれはない。可哀そうだ。私は幸福だがお前は不幸だ。私は立派な人間だがお前はグレている』彼らは自分の立場、自分の優越と幸福と差別を実証し、それを楽しんでいる」。

そしてこう結んでいる。「おれたちは、あいつらの慈善行為とやつらの優越感を満足してやるための『贖罪のヤギ』――スケープ・ゴートじゃない。おれは自分で生きていくんだ」。なるほど、この言葉の真意が分かる人は幸福であろう。なぜなら、偽善に頼らぬ慈善を模索し行為するであろうから。愛とか正義とかは正しいことだが、正しいことをいういやらしさも現実にある。

同じように、ホンネはタテマエに勝るというが、すべてにおいてそうはならない。ホンネを言える人間が羨ましいという人はいる。なぜ言えないのかは、ホンネがいえる人間には分からぬが、憧れる以上は近づきたいのだろう。自分はむしろタテマエをいうのが好きでないし得意でない。だから、タテマエをキチンといえる人間になりたいと思うようになった。

それもあってか、「ホンネとタテマエ」を自分はこのように解釈する。「ホンネのいえる人間はタテマエを、タテマエしかいえない人間はホンネを」。これを努力目標に掲げればいい。どれほどホンネに憧れる人間とはいえど、相手が自分にホンネでズキズキものをいえば嫌に決まっている。人が人にホンネをいうのは支持するが、自分がいわれるのは嫌だ。

だから、ホンネがいい、タテマエが悪いということもない。一切は頭を使って使い分ける必要がある。友人・知人は別にして、交友関係のない相手には滅多なことでホンネをいうべきでないと自分に課しているが、それほどに気をつけていないと自分は遠慮をしない。人に嫌われて、それでもホンネは正しいと信じて生きてきたことで、そんな自分になったのだろう。

が、人間は人生の途上でいろいろ変わるものだ。昔いいと思ったことが良くないと思うこともある。食べ物の嗜好が変わるように考えも変わるものだろうが、絶対的に封印できるものなどない。全面善としたことが全面悪とならぬように、人間には臨機応変な生き方が求められる。タテマエを上手く使えるように努力目標を掲げながら時にホンネで怒るも大事である。

ホンネは怖ろしくもある。節度をもって使い分けるべき。自分にとってタテマエとは、ホンネを抑える大事なもの。ホンネという怒りを抑える重要なもの。人間はタテマエで怒ることはできないし、ホンネを排した怒りを怒りいわない。だから怒りはホンネであろうが、小さなことに怒ってばかりはいられない、だからタテマエの効用である。双方上手く使い分けることが求められる。

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