「夫唱婦随」という言葉がある。「あった」というべきか。民主主義後、近年女性に婦随の意識は少なくなった。自分の周辺においても、「婦唱夫随」型の夫婦が多い。「夫唱婦随」は夫婦がどうあるべきかについての一つの理想形を示しているが、現代の若者夫婦の「婦唱夫随」という形態は、新しい夫婦の形であっても果たして夫婦の理想の形といえるのか。
このような疑問を呈すのも、自分が現代の若者でないこともある。結婚とは男と女の愛情の一形式といいながら、婚姻によって男女の愛情が深まることがないのは、離婚の多さを見ても分かろうというもの。それでも子どもを設け、盤石の家庭を築き上げる夫婦もいることから、婚姻を否定するものはないし、私生児を産むことを考えれば結婚には社会性がある。
一般に新婚夫婦は互いに愛情を信じあおうとの気持ちに満ちるが、次第に色あせ変化を辿るように、恋愛感情ほど激しく移ろいやすいものはない。近年は芸能人などの恋愛や結婚がしつこいほどに取り上げられるが、「一体なぜ?」という疑問は消えない。そもそも愛情の中身も変化も各人で異なる以上、各人にとっては自分というのは、「例外的存在」である。
万人に共通な、普遍的な、愛の法則などあろうはずがない。したがって、男女の愛をいくたび語ろうとも、語りつくせぬ不安定なものを所有する。しかるに他人の不倫や離婚にワイワイ・ガヤガヤ取りつく暇で淋しい現代人たち。頭から袋をかぶり、見知らぬ同士が他者批判に花を咲かせる。他人の不幸をあげつらうことで、自分が幸福であるかのごとく振舞う。
多くの恋愛を経験したものとして感じるのは、恋愛とは発見であり、発見の喜びである。といいつつ、これらは恋愛に限ったことではない。例えば趣味の将棋にしろ、音楽鑑賞にしろ、絵画にしろ、書をたしなむものにしろ、多くの趣味一切は、「発見の喜び」が基調になっている。だから楽しく、だから熱中し、だから止められない。趣味や道楽を自分はそのように分析する。
「究極的発見の喜び」に宝探しがある。海底に眠る財宝に徳川埋蔵金などは、発見の喜びが情熱となる。異性について様々な不可思議発見とその喜び、それが恋愛というものではないか。金で買う女に発見の喜びなどない。彼女たちは男の性処理道具でしかない。もっとも彼女らから見る男は、束の間の射精に大枚出す哀れな子羊たち。だから商売として成り立つ。
「恋人はこんな下着を身につけているのか?」という発見ですら喜びとなる。売春女の下着などは邪魔な布切れでしかない。過去に一度たりとも女を買ったことがない自分は、女はあからさまな性の対象ではなく、恋愛という内面充実が勝った。自らの行動を確信的に理解することで自分という人間の本質理解に及ぶが、それでも人間は自他について永遠に分からないこと多し。
分かるということもまた、「発見の喜び」である。写真で見る美味しそうな料理は、味わうことで発見の喜びとなる。画像で見る名所旧跡も、訪ねることで発見の喜びに満たされる。これらをみても、いかに人間が知的な生き物であるかを示している。過去に付き合った女の多くは男を立てる女だった。そういう女こそが自分にとって惹かれる対象であり、愛する対象となる。
自分のなかにある女性の観念像を弁証法的にいうなら、「女は男に従属することによって逆に男を隷属させるもの」である。男にひれ従う可愛さこそが愛の対象となるのなら、双方の幸福であり利益に寄与もする。フェミニズムやフェミニストの存在は、男にひれ従わぬ女の自己主張であり、そういう強い女に憧れる男にとっては、紛れもない女性の魅力ということになる。
男女も含めて人間関係は相対的なものである。相手の何に惹かれ、何を魅力と感じるかは個々の問題で、フェミニストを否定する理由は個人的にはなにもない。ただし彼女たちの多くはなぜか男日照りである。男は従属してくれる女性を可愛い女と労わるが、性根の強い女が男を従属されるケースが近年高まっている。気の弱い男は諦め気分で権力を禅譲するしかないという。