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Channel: 死ぬまで生きよう!
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災い転じて福と為す?

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災いというほどでもないが、人と人とのトラブルは避けられない。トラブルを起こすつもりはなくても、相手次第で起こることもある。歩道を歩いていてクルマがぶつかってきたようなものだ。「犬も歩けば棒にあたる」ではないが、歩いていただけで災難は起こる。地震や津波や集中豪雨の被災者方々は、「何でこんな目に…」と納得する以外にすべはないだろう。

そうしたとき、信仰について考えさせられる。「諸行無常」という言葉がある。この言葉こそ他の宗教にはない仏教の旗印といってもいいだろうが、さまざまな信仰や宗教にあって、もっともご利益のある宗教など「ない」と思っている。諸行は無常である。だから、人は永遠に変わらぬ世界を欣求し、そこから信仰が生まれるのだ。教えを説く者もそうではないかと。

永遠に変わらぬものを変わらぬものと認め、あついはこれを信ずるためには、人間の心の働きのなかで、変わることの少ない理性を第一とし、これに頼るか、それとも、永遠に変わることのない真実の世界だけを、ひたすら追い求める情熱に頼るか、そのどちらかでなければなるまい。自分は信仰をそのように定義するが、日本人の信仰というのはいささか違うように思う。

変わることなきものを、変わることなき理性によって探求すべく精神に、「お前もいつの日か、無常の風に吹きさらされるのだ」という感情が水をさす。つまりはどちらにも徹底できない、そんな中途半端な信仰ではないか。イスラム教信者は、自分の目には狂信に映るが、信仰とはああしたものなのかも。が、日本的な緩い信仰を前提に何かをいえば、以下のようになる。

信仰に携わろうと、信仰に無縁だろうと、災いは起こるし、不幸に陥る可能性はあろう。信仰に携われば不幸も不安もなく、仮にあっても信仰によって救われるということか?信仰とはそんなものなのか?よくは分からないが自分は信じない。不安や災いは自らの力で解決し、取り払うものだと当たり前にそう考える。溺れる者が神に頼もうと、溺れる者は溺れよう。

信仰が魔法でないなら気休めか?どっちにしろ信仰についてよく分からないし、必要を感じない。何かにあやかることで自分の人生がプラスに動くとかを信じない。運の存在は認めるが、運は信仰ではない。しかし、信仰に携わると何かいい事があるというならそれでいいし、それも信仰に携わる動機だろう。自分には信仰に携わる動機がまったくないことになる。

先にあげた信仰の持つ三つの危険性は、「惰性」、「軽信」、「狂信」であるが、これと戦わねばならぬは本人である。宗派、団体、組織のなかでは常にこの危険が生じやすく、したがってそれに属す本人の内部に生じやすい。惰性や軽信は本人自身の問題だが、狂信となると第三者にも及ぶことになる。精神的な後利益を現世的な利益となるという勧誘はしばしばある。

宗教に身を投じると「得」という勧誘はどこか逸脱している。確かに信仰は精神的安らぎを与えるだろうが、精神的安らぎは信仰のもたらす一つの結果であって、精神的安らぎを求めるために信仰するというのは本当の信仰ではなかろう。信仰に御利益を求めるもしかり。ま、いろんな動機で信仰に携わる者もいるので、無信仰者があれこれ言うのは控えよう。

無信仰者は思考に頼って生きているのだ。「神を信ずる者は、神の実在を欲すること。だが、より一掃大切なことは、神が実在するかのように行動すること」といったのはスペインの哲学者ウナムノである。「神が存在するならば」と考えないで、「神が存在するかのように」行動するならば、神は存在することになるだろうというのだ。信じるとはそういうことか。

信じない者は、「信じないように振舞う」のではなく、本当に信じないのだから、分かりやすく自己欺瞞の必要もない。神を信じるというのは、何かと大変だなという気がしないでもないが、信じないのはてんで楽なのだ。信仰には様々な制約があり、制約あってこその信仰だろう。その点思考は全くの自由である。しかし、自由な思考も自然の前にひれ伏すしかない。

自然というのは、なんと自由に生きているだろうか。自然ほど自由のままにうごめいているものはない。人間は自然と格闘の中で、恐るべき人為的変革力を発揮して自然を拷問してきた。それによって比類のない文明を築き上げることになったが、原子力や核兵器の発明によって、自らが拷問されることになった。「文明の罪」とはそういうことではないのだろうか。

人間の前進はやむを得ないことだ。新しいものが生まれた以上、もはや古い道具もは使わない。常に発展し発達し続けることになる。が、信仰というのはこれまた真にやむを得ない。永久にそのものと一つになることも出来ず、かといって別れることも出来ず、絶望しながら愛していることになる。神の人間への愛、人間の神に対する愛、それを絶望というのではないかと。

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