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「仁義なき戦い」・再び!②

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映画『仁義なき戦い 第一部』の冒頭は、闇市の場面が映し出され、「昭和21年広島県呉市」のテロップが出る。それをバックに以下のナレーションが語られる。「敗戦後すでに一年、戦争という大きな暴力こそ消え去ったが、秩序を失った国土には新しい暴力が渦巻き、人々がその無法に立ち向かうには自らの力に頼る他はなかった」。これの意味するものは何か。

死者37名、重軽傷者66名を数得た広島ヤクザ抗争のドロ沼流血史は、闇市から始まったということである。人はこれを、「仁義なき戦い」と呼んだ。戦いはどのように萌芽し、収束に至ったのか。広島抗争は主に3つに分けられる。昭和21年から昭和34年を第一次抗争、昭和35年から昭和39年を第二次抗争、そして共政会の内部抗争に端を発したのが第三次抗争である。

第三次抗争は、山村組が中心となって旗揚げした連合組織、「共政会」の内紛が発端で起こった。共政会は山口組と本多会という神戸の二大組織を巻き込んで、広島を震撼させた第二次抗争が小休止していた昭和39年5月、「広島は広島でまとまろう」との山村の呼びかけに応じて発足した。初代会長は山村辰雄、副会長には村上正明、理事長には服部武が就いた。

そして翌昭和40年に山田久が出所する。それに合わせて山村は同年6月引退し、同年11月に出所してきた理事長服部が二代目を継ぐ。副会長の一人に旧岡組から原田昭三、山田は理事長に就任する。ところが、この服部―山田ライン体制に強硬に反発した初代幹事長山口英弘は引退を表明し、組の名を十一会と改め、若頭の竹野博士が山口の跡目を継いで会長に就任する。

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まもなく山田が三代目就任に決定すると、十一会会長竹野は賛成したものの、同会顧問の山口や副会長の梶山が反対、実力行使にでる。山田は45年11月24日の襲名式を控え、大阪・西成区の二代目松田組組長・樫忠義に挨拶に行った帰途、踏切で電車通過待ちをしていた笠岡の浅野組組長・浅野眞一の運転する白いベンツが、反主流派の十一会梶山派に襲撃された。

後部シートの中心に座っていた山田、両脇の原田、竹野に発射された銃弾8発は、原田を射殺し山田は重傷を負う。近くの病院で手当てを受けた山田は翌日には広島に帰り、24日の襲名式に胸部を包帯で固めて臨んだ。この襲撃事件は本格的に第三次抗争へと発展した。46年8月、浅野組員が侠道会理事長を射殺、侠道会が浅野組組員を待ち伏せして乱射、4人に重軽傷を負わす。

「共政会と浅野組対侠道会と十一会の抗争を何とか和解に導く手立てがあるかも知れない」。波谷守之はそう考え奔走する。広島拘置所に勾留中の山田に説得に出向くも山田は容易に承知しなかったが波谷の熱意に折れた。「わしは撃たれた方じゃが、侠道会の森田さんに恨みはないけん、和解のことは任せますが、浅野組の顔は立ててつかーさい」と度量をみせた。

結局、第三次抗争は波谷の尽力で終結する。波谷はヤクザになったきっかけをこう述べている。「呉に中通りという繁華街があるでしょう。あの5、6丁目の間を肩で風切って歩いてみたかった」。波谷の親分土岡博は、雨の夜に阿賀西町の路上で射殺された。波谷の父も阿賀の昭和橋のたもとで小原組の若者に射殺された。それが波谷の生まれた阿賀の町である。

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波谷は1994年11月2日、大阪・阿倍野区播磨町の自宅でこめかみを拳銃で撃って自殺をした。享年65歳。莫大な借金を抱えていたというが、借金自殺…それもヤクザの末路なのか。「生き恥を晒したくない」といえば聞こえはいいが。人に金を無心するような人ではなかったのだろう。『仁義なき戦い』に波谷は出てこないが、美能幸三との以下のエピソードが伝わっている。

美能が出所するとすぐに波谷は美能の自宅を訪れた。「二人一緒に呉を出ていかんか。じっくり根性を据えて考えてくれ」。美能にそう伝え、波谷は美能と山村の経営するキャバレーに出向く。着座するなり山村が顔を出す。「元気じゃったか?」美能はだまって波谷の顔を見る。波谷は、「はい」とだけ答えた。「ほうか、今日はゆっくり飲んでいってくれ」といって去る。

波谷の説得もあって美能はその翌日自らの引退を決意。波谷にその意向を伝え、美能組二代目を若頭の薮内威佐男に譲った。山村辰雄はすでに引退し、敵とする価値はなくなっていたし、山田久を中心とする「共政会」という新しい集団は、広島ヤクザの世代交代が進んでいることを美能に感じさせた。カタギとヤクザを分かつもの、それはヤクザの苦しみであり、安寧である。

美能幸三によって書かれた原稿用紙700枚におよぶ獄中手記が、『仁義なき戦い』の大元である。映画の封切られた73年1月のある日、新宿三丁目伊勢丹のはす向かいにあった新宿東映で同僚のSと一緒に観た。観終わった感想は、「ええんかのう、あんな映画を作って。問題にならんにゃええが…」だった。出版関係者には様々な恫喝があったというが、事件にはならなかった。

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