NGT事件の余波のなか、【NGT襲撃事件で考える 女性芸能人の『真面目』さとつらさ】と題する以下の記事が目についた。以下引用する。「真面目だね、というのは褒め言葉だろうか。社会に出れば言外の意味を感じることもある。個人的な話で恐縮だが、マスコミや広告業界で働いていると、それは『つまらない奴』、『考えすぎ』、『堅苦しいね』の婉曲表現としてぶつけられることも多い。
そんな時、恥ずかしさと哀しみが両方こみ上げるような、言いようのない気持ちになるものだ。さて、なんで真面目にやってる子が守られないの、というつぶやきを残していたNGT48の山口真帆。これを書いている段階では、例の襲撃事件の真相はまだ明らかになっていない。支配人が更迭となり、第三者委員会が立ち上げられるという決定が発表されたのみだ。
しかし、様々な疑惑や運営側への批判は論じ尽くされている。ここでは彼女の「真面目さ」と芸能界の関係について考えてみたい。襲撃を受けながらも健気に活動を続け、警察にも自身が有名アイドルだと告げなかった山口。ことを荒立てて他のメンバーやグループに迷惑をかけたくないという思いと、運営側の「きちんと対応する」という口約束を信じてのことだったと言う。
だが彼女の思ったようにことは運ばず、意を決して動画配信とツイッターで事件について公表したところようやく問題視され、運営側の対応のまずさが浮き彫りとなったのだった。頑張っていれば報われる。聞き分け良く、仕事に穴を空けないようにこなし、自分さえ我慢していれば事態は好転する。そんな真面目さを保とうとした山口。
しかしながら、結果として真面目でいい子であったことは、何の得にもならなかったのではないか。売れたもん勝ち。哀しいが芸能界とはそういうところであろう。私は今回の事件で初めて彼女を知ったが、乃木坂46にいそうな美人だと思った。でも、これだけ容姿端麗で、多少はメディアに出ていたのに、騒動があるまで名前さえ知らなかったのだ。
おそらく世間の多くの人も同じではないだろうか。それは、地道に真面目に活動していた彼女からしてみれば、とても皮肉なことだと思う。AKB48グループで有名になったメンバーは、スキャンダルや炎上で名をあげた者も多い。そうしたやり口を敬遠していた山口は、やはり芯から真面目でいい子なのだろうし、芸能界で生きるには純粋すぎるのかもしれない。
しかしながら、山口の訴えに手をこまねいていた運営の初動の遅さは確かに問題だ。その危機感の薄さを見れば、今回の騒動は起こるべくして起こったのかもしれない、と感じるのだ」 以下略。 過去においては美空ひばりは顔に塩酸をかけられ、吉永小百合は銃を持った男に自宅に踏み込まれた。岡田奈々の室内に男が侵入した事件もあった。いずれもファンの犯行である。
彼女たちは正真正銘のアイドルとして、プロダクション側の警戒や厳重なガードがあった。AKBやNGTは秋元の片手間な発想で誕生した半分素人のまがい物アイドルである。自身の危機管理意識によるという点においても運営側のガード意識の甘さは露呈する。狂信的なファンに狙われたら命を奪われかねないといったことを、山口は指摘している。
それに対する運営側は何かあれば対処という構えに見受けられた。危機管理というのは、「何かが起こってからでは遅い」。そのためのものであるが、何もないことをいい事に他人事の無責任さは批判されるべし。そこは先の原発事故と似たようなもの。とにもかくにも、真面目に対処した女性が憂き目に合う一連の騒動であるが、真面目が生きづらいのは芸能界に限らない。
学校においても職場においても、とかく人間の集団の中で真面目が揶揄されるのは当たり前に存在すること。「真面目と不真面目」という記事をここに書いた記憶が残っている。何を書いたか覚えてないが検索してみた。読んでみると、「へ~、これが自分の書いたものか?」といつもながらに思うこと。その日、その時の感性が文を書かせるのは言うまでもない。
が、その日、その時の感性と同じ状態は二度とこない。だから、同じ表題で書いたとしても、内意は同じであっても、同じ文章は二度と書けないだろう。それもあって、別の日に別の気分で自分の文を読むと、「これ自分で書いた?」となる。人間の多面的性を象徴する事例である。書きも書いたり34段落。自らをして、「こんな長文読む気がしない」とならば、やはり長文は害悪である。
今時、ゲーテの『ファウスト』や、志賀直哉の『暗夜行路』のような長編をじっくり読む若者がいるのだろうか?書きも書いたり前者は完成までに60年、後者は17年だがそれでも長い。自分のブログも現在の16段落基本型を、せめて10くらいまでに減らしたいと考えている。16は超えても16以内は過去にはない。なぜだろうか?几帳面に真面目に無言の意志を貫いているからだ。
というのはあくまで推定である。自分のことゆえに自分が分からないことは腐るほどある。人間が多面的な思いを持って生きているからだろう。カントの定時刻の散歩ではないが、自分自身の厳格さを破る自己否定感があると想像する。ブログを書き始めたころは、決めた行数も文字数も何もなかった。が、これだけはと自らに禁じたのは、文字の色付けや太さを変えること。
どちらもセンテンス強調のためにであるが、強調箇所を太字だけはやってみた。賑やかな文字は自分的には美的感がなく、むしろ汚いと映ったし、太字強調も、"いかにも的"な感じがした。よって、それを止めた際には過去にさかのぼって、太字一切すべてを消した。書いてる内容でさえこれ見よがしな独善であるのに、強調はそれに拍車をかけると自らを戒めた。
他人のブログは賑やかなのが多いが、内容のある文とカラフル・強調しまくりは一致しない。むしろ、何もないオーソドックスな文章であればこそ、良いものを書こうという意志が湧き上がる。他人の批判はしないが、賑やかなのは自分的には読みづらい感が増すということだ。だからか、過去に書いた、「真面目と不真面目」の記事を前にしても、再度読もうという気がしなかった。
長いというだけで駄文に感じた。こうして自己批判を重ねながら、適宜な段落を現在の16から10くらいに落ちつけたいと、それが今年度の指針と考えている。書いてるときは自然に行数が増えていくが、後で誤字脱字の修正もしないで放置し、気の向いた時にそれをするというのもちゃらんぽらんというより、会話をするが如く一気に書き進めるというのが好きなのだろう。
したがって、さまざまに気を配り、注意を払いながら文を書くではなく、語りながらの気分で書いている。早いがミスも多い。キーボードは指が覚えているが、他人がキーボードを見ると一様に驚く。それはキーの白い記号や文字がほとんど消えてしまっているからで、そこは自分専用なので自分が分かればいいこと。誰にも迷惑はかけていないし、新しいのを買う必要性も感じない。