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自己中心主義と社会性

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NGT暴行事件問題に言及する気はないが、この問題を契機に、「若さのなかに巣食う老醜」について考えさせられた。若者の中にある老醜についてはいくつか思い浮かぶが、「小姑」というのはその典型か?姑は夫の母をいい、小姑とは夫や妻の姉妹のこと。誰が言い出したのか小姑なる言葉。「何を小姑みたいなことをいってるんだ」とは普通にいうだろう。

姑はいつもやり玉にあげられるが、「小姑根性」というのは、それよりさらにたちが悪い。兄のところに嫁いできた嫁に対し、ケチをつけたり、当てつけをいったり、いびったりは女の性分か?家庭に限らず、職場内の先輩後輩の中にもみられる現象である。これらは年齢に関係なく、「老醜」であろうし、とどのつまりは丹羽の小説のうめのようになる。

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「誰もかれもうめ女の類似を、わが肉体の上に予約されているのだ。いつか肉親に迷惑がられる宿命を持っている。そして、老人ホームという理想的な社会的施設が実現されない以上、日本の家族制度は十年一日の如く、浅はかな見栄坊と、感傷と、矛盾と、無理の多い、誤算の凡俗な暮らしを続けていくのであろう」。丹羽は作品の中でこのように記している。

昭和22年の著作だが発表当時は大変な話題になり、「厭がらせの年齢」は流行語にもなったという。『親の面倒は子の家族がみるもの』という日本的なしきたりに問題意識と苦言を呈す丹羽の達観は、こんにちの社会の到来を予感させるもの。どの家庭においても、年寄は程度の差こそあれ、うめに似た運命におかれることになる。それを解消する老人ホームである。

「肉親でさえ分裂をきたすこともある」と、丹羽の真意はたとえ姉妹であっても、それぞれが結婚して年をとるとまるで他人であるかのように、利己的になるものであるのをそれとなく描いている。肉親であろうが何であろうが、まずは自分の都合本位というのは無神経なのだろうか?遠慮したり、思いやりを持っては生きにくく、図々しさはそうした中から生まれ出る。

「女は弱い」というのは嘘であろう。年齢や性格や社会体験の未熟さを、「弱さ」というなら、子どもはすべて弱者である。さて、世の中で強いものは何か?真っ先に浮かぶのは無神経。これほど強いものはなかろう。歩道の真ん中やスーパーの通路で立ち話のおばさんたち。歩行者の邪魔になることにすら気づかぬ無神経さにはほとほと呆れてしまう。

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どういう神経回路をもっているのか、同じ類の人間とはとても思えない。太宰の短編に『男女同権』というのがある。妻の無神経さ、図々しにさんざん痛めつけられ弄ばれた夫が、戦後「男女同権」ということになって、初めて男としての自己の権利を得た男が女の悪口をさんざん言いまくるという小説である。太宰のナイーブさ、気の弱さが書かせたものであろう。

「それでまあ、日本でもいよいよこの民主主義という事になりますそうで、おめでたい事と存じていますが、この民主主義のおかげで、男女同権!これ、これが、私の最も関心を有し、かつ久しく待ち望んでいたところのものでございまして、もうこれからは私も誰はばかるところなく、男性の権利を女性に対して主張する事が出来るのかと思えば、まことに夜の明けたる如き心地が致しまして、おのずから微笑のわき出るのを禁じ得ないのでございます。実に、私は今まで女性というもののために、ひどいめにばかり逢って来たのでございます。」

男が強かった時代にあっても、男の性分によっては強い女がいなかったわけではないが、ざっと見渡して昨今の女が強いといわれる時代においても、巌とした強い亭主もいる。「レディ・ファースト」の考えがなぜに起こったかを聞いたことがある。女性はこういう風に奉っておかないと、「ねたむ」、「ひがむ」、「いやみ」をいって始末におけないからだという。

人間の「心の中」ほど分からぬものはない。それは妄想の巣だ。何でもない表情を繕っていても心の中には般若がいる。全日本女子バレーの代表選手が明かした内情に思わず笑ってしまった。「選手同士、仲がいいなんてないです。スパイクを打つ時に嫌な子のブロックには、指の骨が折れることを願って打ちますから…」。いやはや怖ろしい女の世界である。

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嫉妬というのは、相手の消滅を願う殺意に似た心理である。人間は心の中で相手を犯したり、殺したり、罵倒したりは日常である。にもかかかわらず、何食わぬ顔をし、紳士らしく、淑女らしく振舞っている。以前、キリスト信者と激論したことを思い出す。聖書の中の有名な一句、「色情を抱いて女をみるものは、心のうち、すでに姦淫せるなり…」についてだ。

姦淫は罪である。が、キリスト曰く、実際に犯したときだけが罪ではなく、心の中で色情を抱いて女をみたら、それは罪だという。キリスト信者も同じことをいう。「バカをいうな!そんなのが罪というなら、キリスト信者はどんだけ偽善者だ?」といえば、「偽善者ではない」と否定する。彼らは偽善者であるを否定する以前に、偽善者であることに気づいていない。

心の中でお金が欲しいと思うだけで罪か?実際に盗みをするから罪だろ?「心で思えば罪」は観念操作である。宗教とは観念の支配であって、これは怖ろしいことだ。なぜなら、観念までも支配してしまおうとする宗教に追い立てられた人間は、宗教的戒律に対する抵抗感から自己矛盾をきたすことになるだろう。誰が上記の聖書の言葉を実行できるだろう。

一時的な戒律を厳しく守った僧や修行者はいるにはいるが、同時に破戒に陥った僧や修行者がどれほどいただろう。平生においてあまりに真面目な仕事に携わっている人ほど、とんでもない事件を起こしたりする。そうした人たちに「魔がさす」というのは恰好の言葉であろう。低階層の人が痴漢などを起こした場合に比べて、エグゼクティブほど「魔がさした」が似合う。

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人間の行動に、「魔がさす」なんてあり得るのか?誰が行おうとも、「万引きは万引き」、「痴漢は痴漢」である。そんな言葉で誤魔化すなといいたい。自身の行為に責任を持つなら、「魔がさす」などは所詮は戯言、こんな言葉を自分は認めない。宗教に批判的な理由として、宗教の戒律は人間を偽善者に誘う。人の前でだけ道徳ぶって陰で何をやっているのやら…

と、これまで述べたことだけをとっても、人間がいかに矛盾したものであるかがわかろう。宗教的道徳的戒律を一方で求めながら、他方では性の美しさと快楽の誘惑に抗えない。心の中で美女を姦淫しながら、想像だけにとどめておくのが人間的成就である。心でする姦淫すら罪であるとの戒律を守らせんとの神の思し召しと人間観には間違いなく乖離が起こる。

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