確かに、「老醜」という言葉は老人や高齢者の存在を卑しめるものかも知れないが、人間が年をとることで卑屈になったり、変に欲張りになったりは心の醜さである。そういう老人は家族からも嫌がられ、「うちの婆さん、早く死んでくれんか」などと陰口を聞かれる場合もある。しかし、老醜というのは老人だけとは限らない。若くて醜い心を持つものは当たり前にいる。
「若醜」という言葉はないが、人間としての醜さというのは老若男女を問わず存在する。長谷川町子の『いじわるばあさん』は意地悪といっても他愛ないもので、ユニークで心地よさすら感じられる。比べて丹羽文雄の『厭がらせの年齢』の主人公うめは86歳の老婆であるが、女性の中に潜んでいる、「厭がらせ」の性質を丹羽は生母をモデルに見事に描いている。
すぐれた小説には私小説的なものが多いと感じるのは自分だけだろうか。丹羽がこの小説で語ろうとしているのは必ずしも高齢者のことではなく、女性の性格の中で積もり積もったなんともいえない、「いやなもの」をぎりぎりの形で表現しようとしている。作品に見る老婆の最大の特徴は、「あてつけ」で、これはさんざん自分の母から体験させられたことでもある。
嫁の作った料理にいちゃもんをつける姑は少なくはないが、嫁に対する高圧的な口の利き方こそが問題だ。「昨日から体調が悪いのを知ってて、何で揚げ物なわけ?こんなの胸が焼けて食べられますか!」など相手を慮らぬ口の利き方は、男なら絶対にないヒドイ物言いである。「なぜに姑は嫁にこうした物言いができるのか?」男には理解出来ぬ女性の謎である。
当てつけでないのに、「なんでそんなあてつけをいうの?」と決めつける女がいる。そんなつもりはないから腹が立つが、女同士の世界観を男に向けるのは間違っている。姑には遠慮せずに、「文句があるなら、自分が食べたいものを自分で作ったらどうです!」といえないまでも、「食べたいものを言ってくだされば材料を買っておきます」くらいは言うべき。
「あてつけ」や、「いやみ」を嫌う自分だから、ひとに言ったりすることもないが、「それっていやみ?」、「あてつけでしょう?」と返す女は結構いる。「何をいってるんだこいつは!」と腹が立つ前に、「よくもまあそんな発想ができるものか」と感心することもある。男同士の付き合いで、「いやみ」や、「あてつけ」らしき陰険な言い方は、皆無とはいわぬがあまりない。
さらに滑稽なのは女が、「いやみ・あてつけ」気分で言ったときに、男がそのように受け取らない場合、「男って鈍感よね~」など言ったりするのがいる。これは、「いやみ・あてつけ」でいってるんだから気づきなさいということで、実際、そんな風にいわれたことがある。「鈍感」といわれようと自分が所有しない引き出しに気づくわけがない。さすがにこの時は性悪女と引いた。
男がそうであるように女は女同士で分かり得る。だから、「いやみ・あてつけ」にも敏感なのだ。そういう回りくどさを好まぬ男はバッサリいう。「お前、オレのこと嫌いじゃないか?」なども躊躇わずにいう。言葉は正しく正直に用いれば、これほど便利に伝わるものはない。丹羽は母へのやりきれない思いを、残酷なほどの筆で冷静に描くが、これも男の率直さであろう。
陰口たたくなら直接いうのが分かりやすい態度で、こうした人間関係を基軸にする外国人は、言葉を上手く生かせている。聖書の冒頭、「初めに言葉があった」は、まさにこの事を差しているようだ。それにしても日本人の、「ひがみ根性」はなぜに生まれるのだろう。僻む奴について、彼がなぜ僻むかを考えたことがあるが、そういう心理はネットで検索可能な時代。
「僻む」とは何であろうか?僻むとは、物事を悪い方に歪めて考える。そのことで認知の歪みを自ら起こすのだ。「僻む人の心理6つ|僻む人には理由がある」として以下の6点が指摘されていた。①他人との境界線があいまい、②うらやましく思う、③他人の不幸が蜜の味になる、④他人の幸せが苦い味になる、⑤他人を認めたくない、⑥自分に自信がない。
自分の考えと同意もあるがそぐわぬ点もある。手っ取り早くいえば、僻む奴は他人が褒められることが面白くない。だからか他人を誉めることもしない。なぜか?それは⑤や⑥に当てはまる。これらに加えて、「人は人、自分は自分」というのが自分の考えである。自分が僻んだりしないのは、人を誉めることは嫌じゃないどころか、相手を喜ばすのは好きだからだろう。
「うちの息子は優秀なんだよ。東京の〇〇会社に勤めている」などという親には、「そりゃすごいね。優秀だね」と返すが、だからといって誉めているわけじゃない。「息子は優秀」といいう親に同意してるだけで、優良企業に勤めることが優秀という判断を自分は持たないが、「何が人を優秀とするか」と論議をする場ではないし、それが不断の人間関係というものだ。
何かを僻む人間というのは何事にも卑屈になりやすい。他人が自慢をするなら手を叩いてあげればいいのだが、顔では繕っても素直に誉められないから僻むことになる。やはり、「他人の不幸は蜜の味」なのだろう。とりあえず僻む自分を直したいと思うなら、僻む自分をその都度攻撃することだ。自分の嫌な部分を徹底攻撃するのが、自分をよくする方法である。
男にもいるが、僻み根性を持った女性が多いのは、他人と自分の比較に敏感だからだろうか。とにかく、他人の服装や容姿やなどが気になるのは女性特有の性向だろう。「僻み根性」が進むと他人のことに「ケチをつける」のが常習になる。それがハッキリ言えない時に、「あてつけ」や、「いやみ」となるのだろう。早い時期に気づかぬと、物事はどんどん悪い方に進んでいく。
だから自分に向き合い、自分の嫌な点を直そう、修正せんと努める。「人間としての自分を高めたい」がが難しいのなら、せめて嫌な自分にだけはならない。そのためには自分の嫌な点を正直に認めて排除にかかる。それには嫌な自分をどれだけ嫌いになれるかにかかっている。自分が他人なら自分のような人間とは付き合いたくない、そんな自分であった。
「自分に好かれる自分になろう」を目指すしかない。それはいくつになっても続くものだが、決して立派な人間など目指してなんかいない。自分に愛される自分であればそれでいい。このように考え、実行力さえあれば、道は遠くとも嫌な自分に決別できるようになる。嫌な他人を嫌ってみても、他人は直してはくれないが、自分の嫌なところは必ず直すことは可能である。