「女の子を選挙で競わせ、順位をつけて面白がったりで起こり得ること」。
たったの30字で言い表せる。加害者・被害者・メンバーの教唆・管理者の責任などはすべて枝葉末節であって、「いつまでこんなことをやり続けるのか」である。誰が悪いかれが悪いなどをいってみたところで事件の本質ではないし、こうしたことが起こり得る土壌を野放しにする前に、女の中に潜む「老醜」を甘くみるなである。「老醜」とは言わずもがな読んで字の如くである。
高齢になると、「老醜現象」という厄介な症候群が出てくる。 つまり、高齢者になると若いころには見られなかった、さまざまな傾向が目立つようになるのは自然なことだから、高齢者を見下すことになるとか、老人差別のニュアンスがあるため、あまり取り上げられない。例えば特異な臭いを放つ、「加齢臭」や、「歯周病」などをはじめとする厄介な老齢現象である。
加齢によるこうした「現象」を、「老醜現象」といわず、「老化現象」といえばトーンダウンにはなるが、「老醜」であることは紛れもない事実。どんな人間でも年はとり、最後は死ぬのは明白だが、とかく若い時や元気のいいころには、この当たり前の事実を忘れがちになる。前途は長いし、「明日」に期待はするが、明日というのは実は今日と同じ空虚なものである。
「老醜現象」は厳密にいえば差別用語かも知れない。が、あえて、「女のなかの老醜」としたのは、NGT暴行事件の根底にあるものを様々思考するに、女の老醜という問題を避けることはできない。「女は男にとって千古の謎」と書いたが、すねたり、ふくれたりなどの女性特有の感情は、「かわいく」映るものでもあるが、度を超すことは問題となる。
適度の酒量は健康にも良いというが、なにごとも度を超すのはよくないのは分かり切ったこと。競馬やボートやパチンコのような容認された公営ギャンブルですら、世知辛い世を人がストレスを発散するための必要悪として認められている。ソープだって売春と何ら変わりないが、法で禁止された、「管理売春」にあらず、個室内における客と女の自由恋愛とされている。
そこでは恋愛など発生していないのは衆目の一致だが、法の網とはそういうものだ。「女は男の謎」といったが、女自身が女について語ったものを目にすれば謎はとけるのか?瀬戸内寂聴や佐藤愛子が、「女は嫉妬深いよ、怖いですよ」といったところで、理解はすれども謎が解けることはない。謎とは現象の説明ではなく、「なぜそうなのか?」の解明が必要だ。
昔から、「男の名誉心」、「女の虚栄心」などという。どっちもどっち、五十歩百歩であろう。これらに正しい注釈をすれば、「名誉に値する者、つまり正しい意味で自負に足る自己を持った者のみが名誉心を持つことができる」。一方で、「虚栄心」とは、「誇るべき自己のないものに誇るもの」を現すが、浅はかなる人間は、"ないものねだり"を要求してやまない。
どちらも度を越さない限りは悪いものとは思わない。男の名誉心が果敢な挑戦を生むし、女に虚栄心があるから綺麗でいる努力を怠らない。虚栄心を捨てた女、恥も外聞も捨て去った女は、醜いもののかたまりといえるだろう。天地真理という歌手がいた。彼女は白雪姫と称され、国民的アイドルであった。そんな彼女の近影は全く別人で多くのファンを嘆かせてしまった。
貞淑でもない女が貞淑であると誉められたいばかりに貞淑の振舞をする。これを虚栄という。女の実体を知る女は、「いい子ぶる」女を腹に据えかねターゲットとする。確かに女は強い虚栄心をもつが、それは女が、自分自身のことを終始気にせずにはいられないことを意味する。男に虚栄心が薄いのは、鏡を見ない日が幾日あっても平気でいられることからも分かろう。
女の嫉妬は男以上に女性から多く発せられる。男から見て別段、嫉妬と思えないニュアンスでさえ、女が見れば嫉妬なのだと。女に嫉妬心が強いのは虚栄心の強さに比例するからで、「嫉妬は愛情の裏返し」というのは、正しくもあり正しくもない。確実に言えることは、「嫉妬」は愛情のバロメータでないということ。「嫉妬」はむしろ憎しみに属する心情である。
ヒステリーとは一つの刺激に対する過剰反応であるが、嫉妬という刺激はどのように発生するか。一例をあげると、夫の洋服のポケットから、飲み屋のママの伝聞が書かれた紙きれが見つかったとする。「今度のゴルフがんばってね」などと他愛ない言葉であれ、この刺激に妻はメラメラと嫉妬の反応を示す。夫に比はない。ママが勝手にポケットに入れたもの。
事情を知らない妻の妄想が立ち上がり黙っていられなくなる。「なによこの手紙!」と、いきなりの口撃にしどろもどろの夫が想像に浮かぶ。「好きよ」、「愛してる」という文言ではないが、愛の予感を妻が感じるのは仕方あるまい。夫が手紙に気づけばゴミ箱いきだったが、気づかないとこういうことになる。が、見つけても事を荒立てず、知らんふりをする妻もいる。
が、刺激に過敏反応するヒステリー気質の妻の嫉妬は最大限に作用する。それにヒポコンデリーが加わると、哀れな夫が想像できる。「ヒポコンデリー」とは憂鬱症、心気症と解されるが、ちょっとしたことをあれこれと妄想拡大するノイローゼの一種で、クヨクヨと自身の内面ばかりを考える人など、内気で内向的な性格所有者がかかりやすい症例である。
ヒポコンデリーは一つの観念に明け暮れし、つきまとうので、この観念の中身が嫉妬であった場合、こういう妻を持った夫は悲劇である。嫉妬は無限地獄であることが美しい。憎い相手や恋敵を人に頼んで抹殺する、痛めつけるなどの事例は古風な手段で最近はほとんど見ないが、今回、NGT暴行事件にその可能性があるとするなら、改善すべき多くの問題がある。
そもそも、同じグループ内の女の子の人気度を選挙で競わせるという手法は、外野にとっては高みの見物で面白いだろうが、女の子個々の心情を察すればおだやかでいれるはずがない。気に食わない同僚を人を雇って痛めつけたい心情は、会社内でもあるように、人気商売ならなおさら強まる。これがエスカレートした場合、傷害事件に発展する可能性も捨てきれない。
選挙という形で露骨に人気度を競い合わせ、煽ったあげくに、「グループ内では仲良くするように」というのは、女性にとって無理があろうし、商業主義による商品の利用法に耐えるしかない。彼女たちが好きでやっているとはいうものの、実際問題は嫉妬のうごめく世界であり、箍が外れてしまえば悲惨なこともあり得よう。責任をとらない責任者の存在が現代の風潮である。