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「他人の不幸は蜜の味」

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という言葉を知っても、「他人の幸福は飯が不味い」というのを知らぬ人はいよう。どちらも似たような意味だが、なぜ人間は他人の幸福な話をあまり喜ばず、不幸な話になると身を乗り出すのか。「すべて幸福な家庭は互いに似通っているが、不幸な家庭はそれぞれに不幸の趣きを異にしている」。これはトルストイの『アンナ・カレーニナ』の冒頭の言葉である。

人間は不幸とか悲劇のうちに個性をあらわすといっている。確かに特殊な問題がそこにでてくるからだろうし、トルストイのいう通りかも知れない。誰もが幸福を望むが襲ってくるのは不幸ばかりと感じるなら、生きることの不安に人間はいつも怯えているということか。そのための信仰であり、そのための宗教なのかも知れない。と、これが自分の宗教観である。

ある特定の宗教を信じなくとも、何となく神仏を求めたくなる気持ちが人の心にあるかどうか。もしあるとするなら、それはどういう場合か。それとも、神や仏を求める気持ちなど一切ないか、まずは自身の問題として考えてみる必要がある。この問題には二つの側面があろう。その一つは、「人間は苦しいときは何にでもすがりたくなる」弱さを持っている。

病気やその他で死に直面したとき、何事か心配でたまらないとき、何かに祈りたくなろうし、すがりたくなるだろう。心の中で無事を祈るのは自然なことかも知れない。苦しいときばかりではない、結婚や何かの慶事においても前途の幸福を祈りたくもなる。それらは直接的な宗教に関係なくとも、「祈ったり」、「すがったり」と同じ心理が信仰であろうか。

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信仰心のない自分は祈りをしない。理由の一つに、"祈りを捧げる理由がわからない"からでだが、祈りの言葉だけならいくつか知っている。「アーメン」、「アッラーフアクバル」、「なんまいだ~(南無阿弥陀仏)」、「なんみょうほうれんげきょう(南無妙法蓮華経)」、「天にまします我らの父よ」、「リーテ・ラトバリタ・ウルス アリアロス・バル・ネトリール」など…。

最後のは一般的ではないがラピュタ語で、「我を助けよ、光よよみがえれ」であるらしい。父の墓を見に寺に行ったことはあるが、墓の前で手を合わしたことがない。手を合わして何をいえばいいのか分からないからだ。「南無阿弥陀仏」といえばいいらしいが、そんなことより心の中で頻繁に会話風に話しかけている。なのに改まって「南無阿弥陀仏」はなかろう。

だから、「できない」ではなく、「したくない」。これまで父の法事にも一度も出たことがない。「でれない」ではなく、「でたくない」からだ。世俗に反することという自覚はあるし、葛藤もないわけではないが、無神論者を自負するからにはこうした世俗と自分との戦いが必要である。それよりなにより自分が本当に大事にしたいのは、父との永遠の心のつながりである。

これには、"自分なりの"という但し書きが前提にある。神仏の前でむやみやたらに手を合わすようなことはしたくないという意志を貫いている。貫いてどうなる?という疑問は、「手を合わしてどうなる?」というそっくりそのままの疑問だ。理由や理屈を抜きに、「慣習」や、「慣例」に従っている方が良いとは思うが、あえてそれに反発してどうなるかという実験でもある。

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そうした背後にあるのは、「信仰は人間を幸福にするのか」という疑問への挑戦である。それを確かめるのは「信仰」と「不信仰」の二つの道がある。信仰で幸福になるというなら、信仰なしで幸福になれないのか?そこに疑問を持ち、だから実践する。「幸福」という言葉には、「安心」や、「安寧」という意味を持ちやすい。確かにそういうものを「幸福」は含んでいる。

人間がそれを欲するのは当然だが、だからと、「信仰」が手っ取り早いというのはあまりに安易である。と、自分は考える。そうではなくて、信仰に頼らずとも不安を生き抜き勇気を「幸福」の中に見出したい。人間は水と空気には絶対的な依存は必要だが、依存を好まぬ自分に信仰の二文字は無用である。「不安を生き抜く勇気も幸福」などと、誰に語っても理解を得ない。

実践する自分が分かっていればいいことだ。「幸福を求めれば幸福は遠のくばかり」という言葉を見たとき、「なぜか?」ちう疑問よりも、幸福というのは無心のうちに宿るものだと理解した。他人に対する親切や善意が無心でなされるようにである。それらと同じものだと理解した。したがって、「幸福」が何か分からないが、それも含めて、「無心」と理解する。

宗教や信仰の本質的な意味を賢人の言葉から理解すれば、多くの人間たちの宗教的動機は、人間の病であるとか、苦悩であるとか、罪であるとか、あるいは欲であったりと、そういうものと結びついている。キリストの愛とはそういうものに答えるのだろうか?キリスト教のことは理解を得ぬが、仏陀の教えはそういうものではないが、仏教も様々にアレンジされている。

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釈迦の仏教、道元の仏教、日蓮の仏教、親鸞の仏教、それが正しいとかではなく、それぞれを真に解釈するのは面倒臭い。自分は、「めんどう」を禁句にするが、無用と定めたものには多用する。有用で大切なことを、「めんどう」と避けないことを命じている。多大な価値観が充満する世の中において、真と贋は必然で、正しい答えを見つければ試験も100点。

正しい手を指せば小学生でも将棋の名人になれる。それが分からないから人間は努力し研鑽する。同じように、ある宗教がインチキである可能性はある。インチキとは、宗教の名を借りて、人間の弱い心を弄ぶこと。怪しげな祈祷を試み、金品を絞りとるような宗教は邪教である。それでも苦しいときに即効薬を求める人間だから、邪教も邪教なりに流行する。

即効薬がなければ困るからだ。「慌てる乞食はなんとか…」でいいことにはならない。信仰に安寧がある以上危険もある。宗教も長く携われば「惰性」の部分も出てこよう。さらには、「軽信」というのも危険の要素である。深く思考せず、疑うべきはとことん疑うべきなのに、軽々しく同意して入信する。そうした軽信以上にもっとも危険とされるのは、「狂信」である。

自分の信じる宗教こそ唯一絶対のもので、それ以外はすべて邪教と非難し攻撃する。さらには自分の信仰を他人に押し付ける態度ほど迷惑はない。自分はその手の宗教者を速攻に拒否をするので迷惑と感じる間もない。熱心なのはいい事だが、狂信が最悪なのは、独善的、傲慢、他人に対する非礼、これは宗教者のみならず、狂信者に通じる非人間態度である。

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傲慢で非礼な人間は会話をせずとも文章に現れる。ブログをやればときにそうした人間の来場もあるが、その手の類をあしらうのも大事で、非礼には非礼で返して丁度よい。「誰とも仲良くしよう」は幼稚園の標語であって、嫌な人間とは付き合わぬ方がよい。斯くの人間は嫌われ者との自覚もあっって、自分に遜るめぼしき相手を拠り所に生きているのが多い。

独善、傲慢、非礼は人間関係の三悪であるから関係を結ばぬ方が明晰だ。人間である限り互いに争うことがある。個性が鮮やかであればあるほど顕著となるが、それでもいい。納得できぬものはたとえ世から尊敬を得た権威者であっても追究するのがいい。追従ばかりではなく人間が真の協和を望むなら、「和して同ぜず」というおもねぬ心を育むべきかと。

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