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自信過剰って…

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人は時に面白いことをいう。面白いことに遭遇し、人間の発想の多種多様に驚き、感心することもある。「あなたって自信過剰なのね」と、いわれたことがある。こんな言い方をしばしばする者がいる。言葉の意味は分かるが、自信と自信過剰の度合いや量差にピンとこない。が、相手の発言をユニークと思うからこそ会話に花が咲くが、おそらくこんなやり取りであったろう。

「自信過剰って、どうしてそう思ったのかを聞きたい」
「そんな風にいわれても…、ただ何となくだけど自信持ってるかなって」
「そりゃ自信はあるさね。自信なかったら生きててつまらない」
「でしょう。そんな感じはする」
「でも、過剰ってのがワカラン」
「俺は失敗はしないんだ、って感じかな?」
「それはないな。失敗はしたくはないけど、自信持ってても失敗はするよ」
「そうなの?俺は失敗なんかしない!じゃなくて?」
「仮にそう思っても失敗はするよ。口で何をいおうが起こることは起こる。ただし、自信のある人間は、失敗しても落ち込まない」
「そうなんだ、それはすごいね」
「失敗して自信なくしたとかいう奴は、過信してたんだろ」
「自信過剰と過信と違うの?」
「似たような意味だけど、過信は本当の自信じゃない…」

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言葉はいろいろあってもニュアンスは微妙に違う。自信がある者は失敗はしても落胆はしないだろう。自信過剰と過信の違いは分からないが、「自信あります」といって、「やらない」奴はタダの嘘つきで自信過剰でも過信でもない。自信のなさを誤魔化す嘘だ。失敗を怖れるあまりやらないでおこうというのは虚勢を張ってるだけで、過信というでもない。

「自分は失敗なんかしない」と思うのは過信で、自信のある人間は、失敗しないではなく失敗を怖れない。自信があるから、「できる」ということに賭けるし拘る。だから何度も挑戦する。人間だから失敗はするが、失敗という事実に目を向けるだけで、自信を無くすことはない。失敗という事実に向き合い、失敗の蓄積から得たものをプラスにトライすればいいこと。

こういう基本的な道理を知らずに、「自信がある・ない」を口にする者は多い。過剰な自信や自惚れは、自信の欠如と知る自分が自信過剰である筈がない。人の物の見方は知識や思慮を欠いているなら腹で笑っておけばいい。気にするとか、気にしないとかより思考の問題である。人はいろんな風に人を捉えるが、的を得たものであるかないかを判断すべし。

占いを信ずる人がいる。そんなものを妄信する人の気が知れない。人名や生年月日、手相、人相、該当する星座など、占いの種は多いが、信じる人はおそらく何かをそこに期待するのだろう。本気でそんなことを信ずるものは、言い過ぎかも知れぬが心に地図を失った人か?一時的には面白いがその種のものは余興である。賢人の著作とゴシップ週刊誌ほどの差がある。

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人の未来も含めて世の中の多くは予測できないのが道理だが、占いはそれを当てるという。予測というなら可愛いが、「確実」という言葉を使う。その方が信憑性があるし、10年先をある占い師に予測された者が、10年後になって、「あの占い師はいい加減なことを言いやがって!」と責めることにはならない。それを考えると占い師とは無責任な気楽な稼業である。

10分で3万円、3分で5000円の占い師もいる。前者は時給18万、後者は10万のぼったくりである。社会が、「不確実の時代」であるのはいつの世もであって、がゆえに、「自明性の時代」であるべき。自明とは、証明や説明や解説をしなくても、それ自体ではっきりしていると判断されることである。ただし、必ず正しいことが保証されるものではないが、予測を超えたもの。

いつ頃だったかある時期に、「自分のあるべく力を尽くして自らの可能性に挑む」と、強い筆圧でノートに書き込んだ。難しい問題や困難に直面しても、人に相談することをしなかったのは、他人がよいアドバイスをくれることより、自らを信じることを選んだ。自らを信頼することは他人を基準に行動しないということであって、それをしないから他人のことが気になる。

ともすれば自己満足的に陥りやすいが、それを排しながら自分が自分を信頼し、自らのやることに自らが充足していく。それで得たものが、「自信」である。人に助けられるより、自らの力で命を救えば自信になるように…。「自信=自分を信頼」という言葉と思っている。自分こそが最後の拠点である。そのための蓄えとして賢人たちの著書があった。所詮は何もない自分である。

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自信のある者は、憂鬱からも、不機嫌からも、不要な懐疑からも、不安やあせりからも自由であり活動的である。「なぜ山に登る?」と聞かれて、「そこに山があるからだ」は有名な言葉であるが、チェコのザトペックというランナーは、「なぜ走るのか?」と聞かれて、「ウサギになぜ走るのか聞いてごらん」と答えている。黙々と走る人間に無意味な質問である。

長距離陸上選手21名との単独インタビュー取材を収録した、Michael Sandrock著『Running with the Legends』は20年以上前に出版されたが、ビル・ロジャーズ、フランク・ショーター、瀬古利彦など、マラソン史に金字塔を打ち立てたレジェンドのランニング哲学や、トレーニング方法などが記されている。もちろん上記したエミール・ザトペックの言葉もある。


もともと靴工場の作業員だったザトペックは、職場の運動会をきっかけに走り始め、当時画期的だった、「インターバル走」を練習に取り入れて世界の頂点に上り詰める。その練習メニューは、400m×100本のインターバル走を 2週間続けるという過酷なものだった。想像を絶する、400mインターバル走を100本をやってのけたザトペックの精神力たるや、「神レベル」である。

後年、ザトペックについた異名は、「人間機関車」だった。彼らにとって、走ること、登ること、さらには投げること、跳ぶことを極めんとする者たちにとってそれらは、「なぜ?」と問う必要のないくらい、「自明」なことである。何もする気が起きない人もいれば、他方でバカみたいに何かに熱中するのは見事、「自明」に生きる人。依存の心理がいかに人間をダメにするかが見える。

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自分で何かを明らかにしようとする生き方を欲する人たちである。プロ野球やサッカーやアイドルたちのファンがそうであるように。行きつけの歯科医院の衛生士との会話で、「東京に長い事いたよ」、「私も東京によく行くんです」という流れから、彼女がジャニーズファンであるのを知った。ジャニーズは中3少女なら誰でもかかる麻疹のようなものと思っていた。

彼女はどうみても25歳を超えているように見えるが、今なおジャニーズの追っかけが生き甲斐であるという。実際に話してみると批判はわかず、その熱意には正直、「すごいね」と偽りない言葉になった。自分はネットでみた一枚の写真について話す。「女性がわからないのは、コンサート会場の柱に貼られたポスターにハグするファンで、あれは男に理解できない」。

彼女は、「知ってます。私も光景はみます」という。「あれが女の子の感性?」と聞くと、「あれは自分がそうしてるのを人に見せたいんですよ。私なら恥ずかしくてできません」といわれ、女性の自己顕示欲の深層に驚く。自分がそうしたい以上に、周囲に見せたいという心情など男は考えない。新たに得たものは、「何事も聞いてみなければ分からない」という確信だった。

ポスターに抱きつかねばならぬほどの高望みをせずとも、世に温かい生身の肌の男はいくらでもいようが、彼女たちの感性は理想を求めてやまない。ドイツ語のフェアシュティーゲン(verstiegen)という言葉は、「極端な」、「途方もない」という意味だが、「高く登りすぎて失敗した」が原義である。目的を持つのはいいが、途方もない目的は失敗になりやすい。

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