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世俗という悲喜劇

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人の言動にいちいち噛みつく心理は自信のなさの現れという。「金持ち喧嘩せず」とは、頭にきてもバカとは戦うなである。自分と違う意見に遭遇するのが怖い貧乏症は、自分の考えにない他人の意見にエールを贈ることをしない。それができる人間は心も広く向上心も備わっている。が、「自分と違う意見には自分自身が否定された気持ちになる」という、怖ろしく心の狭さである。

一見自信家に見えても、実は自信のなさの反動からの虚勢だったりする。他人の会話への横やりはマナーに反するを知ってか知らずか、腕まくりで発言を抑える必要がどこにある?体験的にいうなら、「批判も擁護もいらんから黙っとれ!」といいたくなる。「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」といい、「横やりを入れるな」という戒めもあるが、夫婦の喧嘩は馴れ合いと教えている。

目立ってナンボの芸能人たちは、忘れ去られる惨めさを知るから、何とか存在感を維持しておきたいし、看板を下ろした精彩なき芸人は、看板をあげる機会を狙って騒動に参入する者もいれば、事務所が話題づくりにゴシップ、スキャンダルネタを仕掛ける場合もあるという。タレントという肩書だけの芸無し芸人が時事や社会問題にクビを突っ込む時世である。

「芸能人は政治発言をすべきでない」という声を聞く。賛否はあろうが、基本は善悪の問題ではなかろう。何を善とし悪とするかは、それぞれの立場によって変わってくる。大方のタレントはマネージメント事務所に所属するが、個人事務所に所属するタレントは自己管理はその点自由であるが、それでもCM契約する場合は、使う側の意図が加味される。


契約書には様々な条項が加味され、違反すれば即刻契約解除されたり、違約金まで発生する条項もある。CMで使われる以上、タレントとしての商品的価値が下落するのは使う側にとっては困るわけで、その辺りの自制心は必要である。個人事務所で自らが仕事をとり、CMに出演しないタレントが、「不倫は個人の自由」といっても、ファンから見れば商品である。

その辺りをどうするかという問題もある。ファンに去られても人気が落ちても、自分の尊厳は自分が決めるというのは、ジュリーこと沢田研二が身をもって示した。彼のように、個人事務所でCM出演もない、デブになってもコアなファンがいるというなら、好き勝手に振舞えばいいこと。事務所に所属するタレントがあれこれいうのは、立場的に説得力がない。

タレントを商品とする以上、何を善悪とするかは上記した立場の問題である。ファンの善悪、事務所の善悪、メディア(TV局)の善悪、レコード会社の善悪、CM契約企業の善悪、それらの上に本人の善悪が被さる。それらに最終的な順位をつけるのは自分自身と思うが、タレントが所属事務所の奴隷なら事務所がすべての決定権を持つことになるのは組織のルール。

タレントと事務所に派生する様々な問題は、タレントに限らず一般人にもあろうし、「公」と、「私」の問題だろう。会社に勤務する以上会社の奴隷となるか、それとも会社の仕事をやってやっているのだとの強い気持ちで働くのか、大方は前者であろうが、後者の考えの人間もいる。決定的な違いは、「働くものと働かないもの」とでは生活基盤がまるで違っている。

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また、同じ労働者といっても正社員とバイトやパートのような片手間 (といわれる) 業態によっても違う。一人の人間をめぐる様々なものが、善悪という形でのしかかってくる、それが社会である。したがって、タレントが所属事務所で管理される以上、事務所の方針で行動するしかない。マネージメントというのはそういうもので、好き勝手に立ち廻られては収拾がつかない。

人間は二人以上で社会が形成される。この考え方でいえば、恋愛でさえ立場の違う同士で繋がり合っている。もちろん夫婦もである。子どもにも人権はあるが、親権が優先される年齢と成人とは異なる。かつて階級社会の時代にあって、誰でも異性を求める欲情に変わりはなく、貴族と平民という許されざる立場を超えて男女を結びつけるのは愛であった。

愛という言葉の響きはいいが、率直に言い換えると欲情にすぎない。こういう川柳もある。「愛という美しい名でオスとメス」。階級制度がやっかいなのは、欲情だけでは結ばれることはできない。それを周囲からみて本当の愛情関係に推し進めてみたところで、たちまち階級という矛盾にぶち当たる。部落差別や人種差別や宗教差別から多くの男女の悲劇があった。

「人間が口を開けば即矛盾」となるが、人間は生きてること自体が矛盾かも知れない。そうした矛盾の網をかいくぐって生きねばならないことを思うと、人間は生きていくことだけで十分目的を果たしているだろう。恋愛の行き着く先が結婚であったとしても、恋愛そのものがどれだけ深いものでも他人との関係である以上、結婚が何かというのも導かれる。

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結婚を、「愛の究極」や、「愛の合体」などとする言葉はいくらでもある。結婚がおりあっていようがちぐはぐであろうが、あくまでも、「共同の人生」という一体の関係であるのは間違いない。秋篠宮眞子と彼氏の行く末がどうなるかは誰にも分からないが、一昔前なら心中のケースかも知れない。心中で愛を貫くのが善いか悪いか分からないが、短くも儚い愛も愛かと…

どうして心中決断に至るかは、至らぬ者にとって分かるようで分からない。美しいともいえるし、勿体ないともいえる。眞子内親王も27歳のお年頃でもあり、今後どこかで新しい彼氏と出会うという可能性もないわけではないが狭まれる。そんな状況で現在の彼氏と破談になった場合、次の恋愛に尾ひれはつこう。そこを考えると、二人を一緒にさせてやるべきと考える。

お見合いという手もあるにはあるが、恋愛をし、意中の相手を見つけたのだから、結ばれるのがよかろう。現皇太子妹でかつての清子内親王が降嫁された東京都庁職員の黒田氏は、秋篠宮殿下の初等科時代からの学友であった。純粋な恋愛というより、お見合いの延長上のようなもので嫁いで13年になる。子宝には恵まれなかったが、それはまあ授かりものだ。

世俗の喜劇としたが、世の中には悲劇もある。喜劇でもない悲劇でないのを何というのだろう。失恋が悲劇であるのはいうまでもないが、なぜ悲劇というのか?恋愛を恋愛とのみで見ず、そこに人生と幸福を夢見るからであろう。人が全人格的なものとして恋愛に対するからであろう。失恋によって人はしばしば自殺をする。勿体ないと思うが否定はできない。

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なぜなら、その人は自殺によって自分を限定したのである。限定とは生の未来、生の可能性を捨てたこと。捨てたのは否定をしたからだろう。人間は絶望によって鍛えられはするが、自らを鍛えなくていいというのも選択である。自身の生の未来まで否定をするほど自らを限定する必要はないと考えるが、失恋をして絶望する人間を誰が癒すことができるだろうか。

多くの失恋者に対峙したが、慰め言葉は一言も発さなかった。なぜなら、どんな慰め言葉ですら、相手が満足するとは思えなかったからだ。そんな魔法の言葉は見つからない。自分が見た失恋体現者はまるで生ける屍のようであったし、生きた自己にとりついたもう一人の自己の死骸がそこにあった。その死者にとりついて嘆く人に、どんな慰め言葉があろうか。

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