この表題は、今は懐かしい筑紫哲也の「NWES23」の番組前半と後半の合間にローカルニュース枠で放送されていた街頭インタビューコーナーだったが、放送時間短縮後は、「多事争論」とセットで全国枠での放送となっていた。昨年は筑紫が他界して丁度十年、時節の流れは速いものだ。久米宏はやっとこ筑紫の享年齢に達したが、筑紫の死はいかにも早すぎた。
タバコを一日三箱吸うヘビースモーカーの筑紫が肺癌で死んだのは、彼にとって本望(?)だったか、こんな言葉を残している。「百害あって一利なしと言うけど、文化は悪徳が高い分深い。(喫煙は)人類が発明した偉大な文化であり、タバコの代わりはありませんよ。これを知らずに人生を終わる人を思うと、何とものっぺらぼうで、気の毒な気がしますね」。
「癌の原因はストレスでタバコはきっかけにすぎない」という喫煙者は多い。さて、丸の移籍に対してスポーツライター玉木正之は、「こんな昔のヤンキースのようなやり方はもう流行らない。アスレチックスのように金をかけずに安い選手だけでどんどん強くなったチームもあるが、広島カープがまさにそれ。我が巨人軍にはお金というものがあるんです。
「丸が巨人に行って、カープファンはどう思うんだろう?」というが、どう思うこう思うといっても、FAは制度として存在するものだから、ファンがどうこうするとかではないにしても、あれこれ言う者、丸を恨むものは少なくない。ただ、「丸を巨人が取った」、「丸を巨人に取られた」ではなく、「丸が(自らの意志で)巨人に行った」ろ寛大になれないものか。
応援する球団のことを主体に考えるより、丸という野球人の人生を考えてやれないものなのか?チームの勝ち負けも大事だろうが、そのことばかりに熱くなるのではなく、ファンも一人間なら、一人の野球選手を一人間として幅広く捉えてやるべきではないか。金満球団の巨人のやり方は、ヤンキースのようになるかどうかも含めて巨人が責任を負うことだ。
それはさておき、FA制度というのは、選手の選手による選手のための制度として、球団の大反対をよそに選手会の強い希望によって誕生した選手の権利である。ドラフト制度には選手の権利は何一つ反映されていないことを考えれば、努力・研鑽で得たFA制度は、選手の夢が叶うものでもある。選手がFA制度を行使する理由として元ロッテの里崎は以下分類する。
◎夢追い型
・優勝したい型…金本知憲、新井貴浩、内川聖一、村田修一。
・憧れのチームでプレーしたい型…清原和博、糸井嘉男。
・故郷のチームでプレーしたい型…:和田一浩、大竹寛、中田賢一、岸孝之。
◎出場機会優先型…:涌井秀章、木村昇吾、森福允彦、炭谷銀仁朗。
◎好待遇、高額年俸を求める金銭追求型…杉内俊哉、丸佳宏。
◎チーム愛最優先型…関本賢太郎、栗山巧、中村剛也、三浦大輔。
ただし、里崎はこう付け加える。「FA権(の行使)はもろ刃の剣」であるとし、その理由として、「移籍先で評価を得られなかったFA選手は引退後、球界から永久に声がかからない可能性だってある」と、少し背筋が寒くなるような現実も述べているように、どんな制度も選手にとって一方的によいということばかりではないし、それがFAにおける選択の難しさでもある。
丸はこのように回想する。「僕が小学校6年生の時に阿部(慎之助)さんが入団された。僕はソフトボールをやっていて、キャプテンで背番号10をつけてキャッチャーをやっていた。さらに右投げ左打ち。阿部さんのリストバンドを東京ドームで買って、それを着けて試合に出ていた事もありました」。憧れだった阿部は野手最年長39歳。一緒にプレーする姿を丸は想像出来ただろうか。
これまでは対戦相手としての巨人を丸はこう見ていた。「いやらしいというか、勝負強いイメージをすごい持っています。勝負所でしっかり勝ってくるチームですね」。16年から広島は3連覇を果たした。2年連続MVPの丸は、チームの柱として輝きを放ったのは間違いない。「そういった経験が最近のチームとしての成績になっているのかなと思っています」。
野球人として夢が叶った丸の率直な喜びを共有したいという心あるファンもいるだろうが、行きたい球団に行く選手をなぜああまで批判するのか理解に苦しむ。抽選で運命が決まるドラフトこそ批判されてしかるべきだが、元週刊文春編集長である花田紀凱も丸の巨人移籍にはかなりおかんむりのようだ。花田がコアな広島カープファンであるらしく、ゆえに鼻息が荒い。
ファンというのが贔屓のチームのことしか頭にないというなら、過熱型・単細胞というしかないが、丸の実家に嫌がらせをするなど、バカを通り越している。コアなファンを知るが、彼らの熱い言動も普段は他人の問題と意に関せずだが、今回は表題にあるように、「異論・反論・オブジェクション」。オブジェクションは異論・反論のカタカナ語で、「不服」・「異存」の意味もある。
久米宏の、「巨人は心根がない」という批判は、巨人に行った丸批判でもある。ファンであるのはいい、野球に熱狂するのはいいが、ファンの理想や思惑に合致しないからと人の道理を外していいものか。「カープ好き」、「カープは命」を鼓舞する前に、人の道理を踏み外さぬこと。人の気持ちを理解するから批判はしたくないが、「批判を覚悟で」という人間への批判は礼である。
現実に金持ちも貧乏もいるわけだが、金持ちを幸と思うから貧困が不幸になる。丸がカープから出てどうなるかは、いなくなって分かること。カープ球団の努力を見守るのも、期待するのもファンの心構えである。あれこれ批判する前に、「何事も努力してみなければ分からない」という可能性を捨てられない。話題作りの批判もあろうが、花田氏は「FA反対!」をしきりにいう。
他所でも「FA反対!」の声は結構聴くが、選手会が選手のために決めたことで、前記したようなリスクもある。原監督が丸に、「勝つために君が必要だ」といった言葉尻を捉えて、「だったら育てろよ!」との苦言も幼稚。「広島ファンだって丸を責めるわけにもいかない」とはいうが、制度がある以上、責める責めないは次元が低い。丸に罪はなく、声援・非難のどちらも耳栓した方がよい。
「師匠を負かすことが師への恩返し」という。マツダスタジアムでカープファンのとるべき姿はまさにそれである。心ないファンのヤジやブーイングを浴びようと、丸は気にも留めずに巨人のために打てばよい。カープの敵は丸一人ではないし、自分は丸のプロ野球人としての矜持を見たい。ケツの穴の小さいファンはいろいろいうが、「大根でも突っ込んで穴を広げろ!」である。