「最年少プロ将棋棋士の藤井聡太七段(16)と加藤綾子アナウンサー(33)の2019年新春初対局!プロ棋士の心得から高校生活、将棋メシまで好手、妙手とりまぜた指し回し」。という記事が2日にアップされていたが、もっとも前年度に収録されたものだろうし、新春初対談を初対局としたは、聡太が棋士だからと見受ける。その中で意外 (?) な発言があった。
加藤…地元の愛知出身の戦国時代の武将はたくさんいます。自身を例えると誰になりそうですか?
藤井…そうですね…1人選ぶなら織田信長。
加藤…えっ、驚きました。イメージが違いました。豊臣秀吉とか、徳川家康とか…。
藤井…信長になりたいですね。常識にとらわれずに将棋に向かっていきたい。革新的なところにひかれます。
加藤アナもビックリの信長発言だが、藤井の出生地瀬戸市は三河と尾張の境に位置するも尾張地方に属す。旧藩名はどこの県にも残り、それで特にどうということもないが、愛知県の場合は旧藩名にまつわる特別な県民意識が存在するという。信長、秀吉、家康ら3人の天下人を輩出した地域の特異な排他性という分析もあるが、以下のツイートが話題になった。
これには2万を超えるリツイートがあり、今なお拡散しているというが、地元・愛知県民からのツイッターには、こんな声が寄せられている。「そりゃあ愛知県民なら尾張と三河はこだわるに決まっとるわな」 (三河人)。「尾張と三河はホント別の国だもんで、トヨタさえくれれば別れたい」 (尾張人)。なるほど…、やはり日本一のトヨタが三河にデンと坐っているのが大きい。
三河のトヨタに対抗する尾張に何がある?せーぜーどでかいパチンコ店くらいか?こんな意見もある。「愛知県は今でも戦国時代だよ。尾張で三河の話や三河弁出すと鼻で笑われるし、三河で尾張の話や名古屋弁出すと、"あちらの方ですかー。"ってされる」。「天気予報でも尾張と三河だし、受験でもそうだし、文化とか方言とかそもそも違うので… 」。
「尾張人は三河を見下す傾向にあるけど、信長出身地の尾張に対して三河は家康の出身地だで、最終的に勝ったのは三河じゃんねと三河人も思ってるから、愛知はまだ戦国」。「父方祖母(尾張)の味噌で煮込む味噌おでんを、三河出身 (味噌おでんの味噌は後付け) の母上は許せないという」。「『名古屋名物 八丁味噌』とかいうな!あれは三河の岡崎じゃ」。
「岡崎出身の母と、一宮育ちの父は、同じ国の出とは思っていません。いまでも三河出身と尾張出身です」。「愛知の三河・尾張もあるけど、青森の津軽・南部もあるので各地方での地域紛争は未だにあると思う」。「尾張と三河?多分、八戸と弘前くらい違う」 (青森県民) 。「八戸と弘前くらい違う」といわれても、よそ者には分かりかねるが、三河と尾張は理解する。
広島にも安芸と備後があって、県庁所在地広島市を要する安芸地方と、県内第二の都市である福山市は、同じ県内でもロンドンとパリくらい離れている。したがって広島市民は、「福山って広島県か?岡山かと思った!」などと冗談半分の侮辱気味ないい方をするが、実際に福山地方の方言はモロ岡山弁に近い。同じ備後でも中間の竹原、三原は安芸言葉である。
それほどに東の外れの福山は岡山の影響が濃く、福山から岡山県は足でまたぐこともできるが、広島市から岡山県まで徒歩で行こうものなら (行くものはいないが) 2泊は要するだろう。三河人と尾張人が在所を隠して会話をすれば、すぐに分かるものなのか?広島人が福山人と会話すればものの数秒で分かる。それほどに語彙もイントネーションも違っている。
違っているだけならいいが、どこかそぐわない感がある。だから同じ広島県民という気がしない。我がドローン友は岡山生まれで岡山在住20年、広島在住50年超になるが、岡山弁のニュアンスは抜けていない。方言の土着性というのはそれほどに強力のようだ。聡太の話に戻るが利口な彼は、「一人だけあげるとしたら…」と前置きして信長をあげたのは卒がない。
「秀吉や家康について思うところもある」ということなのか、社交辞令かは分からないが、不思議と家康は三河以外で人気がない。「家康は日本人が嫌う性格の典型」と、歴史家山岸良二氏は以下の説明をする。家康の265年に及ぶ徳川幕府政権は、多少の混乱はあったものの世界史的に見ても類を見ない長く平和な治世だったと、内外からの評価は高い。
そんな江戸時代の基礎を築いた家康の、「偉大な実績」とは裏腹に、人気は意外に乏しく、「嫌われ者」になることすらある。なぜ、「成功者」であるはずの家康は、日本人に嫌われるのか。「あなたの好きな戦国武将は?」、「あなたの尊敬する偉大な人物は?」などのアンケートでランキング上位に来るのは、「信長」、「秀吉」、「真田幸村」、「信玄」らが定番である。
東北の覇者である、「伊達政宗」を加えても、「戦国の覇者」徳川家康の名はなかなか目にすることはない。その理由として家康が日本人に、「嫌われる本質」が四つ存在すると山岸氏はいう。① 「華々しさ」も、「潔さ」もない。② 「義理」を重んじない、「薄情さ」。③ 「タヌキおやじ」と呼ばれる、「ズル賢さ」。④ 目的のためには手段を選ばず、それで成功した、「しぶとさ」であるという。
①~③まで家康のすべての行動基準は、「つねに自分が生き残る」ことであって、そのためには、「義理人情」どころか、「恥や外聞」もかなぐり捨ててズル賢く世渡りを続け、最後までしぶとく生き抜くことを追求した。どうやらこれが日本人の気質に合わないようだ。日本人は元来、成功者に対して、「や」っかみ、「ね」たみ、「そ」ねみを抱く性質がある。
とはいえ、家康が偉大な、「成功者」であることは揺るぎない事実であり、「家康がいなければ、今の日本はなかった」と言っても過言ではなかろう。生涯にわたって、「質素倹約」を旨とした点など家康に学ぶことは少なくない。「人の一生は重き荷を負うて遠き路を行くがごとし」。この言葉はいかにも家康の人生を象徴するものとして、さまざまに活用されている。
遺訓として伝わる言葉の続きには、「勝つことばかり知りて負くる事知らざれば害その身に至る。己を責めて人を責めるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり」。若い時代は自分ばかりを主張し、自分の世界を作り上げることに全力を集中し、他の人の気持ちになって考えてみる心のゆとりはないものだが、負けること、自分を責めることの大切さを家康は説いている。
最後の、「及ばざるは過ぎたるよりまされり」とは、足りないほうが、やり過ぎてしまっているよりは優れているの意味で、『論語・先進』にある、「過ぎたるは及ばざるが如し」から取られたものだろう。確かに、「度が過ぎる・やり過ぎる」のは、足りないことと同等によくない。が、我々はついつい度を越えてしまう。飲酒や金銭の浪費、他人への心ない発言しかり。
聡太は家康の遺訓を知っているであろうし、彼の将棋は度を超すような派手な立ち回りはない。慎重な上にも慎重で用心深いところが勝率に反映しており、そこは家康ごときである。加藤一二三九段をして、「藤井君には欠点が見当たらない」と言わしめている。元旦には一宮出身の豊島将之王位・棋聖との尾張対決があったが、結果は聡太圧巻の完勝譜だった。