「一年の計は元旦にあり」という。我々が小・中学時代には、「これでもか!」というくらいにいわれた慣用句であるが、昨今もそうなのか?いうまでもない言葉の意味は、「一年の計画は元旦に立てるべきである」ということ。律儀にそれを実行した人はいるかも知れない。あくまで想像だが…。自分はやったことがないし、そもそも一年の計画ってどんなことを?
立てる自信もない。受験生とか記録更新を目論むアスリートとかなら分からなくもないし、会社経営する社長さんが、短期・長期にわたる経営計画目標を立てるのは、ダラダラやるよりは良いだろう。こうした何がしかの目標を軸にやっていこうという人はともかく、小中学生にむけて「元旦に一年の計画を立てなさい」といったところで、そんなのあり得ん。
仮に立てても三日で終わるだろう。と、自分を中心に言ってはみるが、多くの子どもたちにとってそういうものではないのか?どんな計画を立て、実行したものがいるというなら、その話だけでも聞いてみたい。言葉はあるにはあるが、絵に描いた餅がごとく、クソ真面目に実行するものではないと子ども心に踏んでいた。「一日一善」と同じようなものだ。
誰がいつ頃いいだしたのかを調べたら、中国・明代の憑慶京という学者によって著された書物『月令広義』からの出典であるらしい。『月令広義』は中国の伝統的な年中行事やしきたりが解説されているもので、そのなかに、「一日の計は晨にあり、一年の計は春にあり」という一文がある。晨は、「あした」と読み、朝のことを指すものが、朝と表記することもある。
春は正月を意味し、したがって言葉全体の意味は、「1日の初めである朝や、一年の初めである正月にこそ計画を立てるべきである」という戒めのようだが、実はその後に、「一生の計は勤にあり、一家の計は身にあり」という言葉が続く。これら、「一日の計」、「一年の計」、「一生の計」、「一家の計」を、「四計」といい、よき人生設計に大切とされている。
即ち、ダラダラ生きとってはいかんということだが、こんなことを毎日考えていたら肩が凝ろう。ま、世の中には中国渡来や西洋から届いた格言や諺や慣用句の類は腐るほどあるが、そんなもんいかほど実行できようぞ。子どものころから好きだった、「塵も積もれば山となる」、「今日の仕事を明日に延ばすな」というのが好きだったが、誰でも心に残る諺はあろう。
「明日、明日と言いながら、今日という『一日』をむだにすごしたら、その人は、「明日」もまた空しく過ごすであろう」。グサリとくる言葉の主は亀井勝一郎である。さらに亀井は、「明日とは、実は今日という一日の中にある」というが、この辺りは座右の銘としたこともあって、ワリと卒なくやってきたのだが、自分がそうであると他人にも要求するようになる。
確かにスピーディーに物事をやるのはすべての面で良きことだし、管理職として部下に実行させられるなら能率もあがるだろう。サービス業なら顧客にこの上なく喜ばれる。「頼んでずいぶん経つのにまだできてない?」などはクレームの上位を占める。人によっては、「もういい!お前のところでは頼まない」と憤慨させたりする。レストランでお冷を頼むが忘れるウェイトレスもいる。
「二度もいわせるなよな」という客を見かけるが、お冷程度とはいえ、立腹する客もいる。自分は頼んで持ってくるのが相当に遅い場合、「三日前に頼んだのに、やっと水がきた」などのジョークで周囲を笑わせる。本人は笑えないかもしれんが、ガミガミいうよりは和やか気分だろう。仕事の遅い人間の特徴を一言でいうと、緊張感に欠けるので動作や心の手際が悪い。これは性格だろう。
ここにも幾度か書いたが、「忙しい」、「疲れた」、「めんどう」を禁句にしている自分だが、その理由は人間がこういう言い訳になだれ込むことを知っているからだ。ようするに、「忙しくなくても忙しい」、「さして疲れてないのに疲れた」、あげく、横着者の常套句が、「めんどうくさい」である。言葉の中に逃げ込み、自己を正当化する人間の弱さ、ズルさを戒めるために…
「忙しい」が口癖の人間に仕事ができる者はいない。「多忙であることによって、自分は何か仕事をしたという錯覚を抱くことが出来る」。これも亀井勝一郎の言葉。たしか20歳くらいのときだったか、少し飽きてきた女がいた。その彼女からもらった手紙の中に、「愛の敵って慣れかも…」と書かれているのに驚いたことがあった。これが亀井の言葉だったと数十年後に知った。
『ニ十歳の原点』の高野悦子の日記にも亀井がでてくる。「亀井勝一郎の『愛の無常について』をぺラッとめくって読んでみたら、『人間とは何であるか』とか、『いかなる政治的党派、思想的立場をとろうと各人の自由であります。…しかし自由の最大の敵は自分自身であることに気づく人は少ない』なんて書いてあったので」。日付は1967年 7月15日だから彼女が18歳のとき。
「自由の最大の敵は自分にある」。この言葉だけをとっても、亀井を賢人に据える理由があろう。とかくこの世は、自分で自分を何とかしなければならぬ事ばかり…。親の支配にも、金を貸して返さぬ友人にも、小言をいいまくる彼女に対しても、腹を立てたり不満をこぼすだけではな~んの解決にならない。「すべては自分が動くしかない!」を教えてくれている。
というところで表題の意図についての真意とは、これまで表立った反論をせず、人の数だけ考えがあるとの見解に終始したが、昨年度FA制度で巨人軍に移籍した丸佳宏についても様々な意見をYouTubeで知って驚く。発言の主は元雑誌編集長の花田紀凱、スポーツ雑誌主筆の玉木正之、さらには、「ニュースステーション」の元キャスター久米宏らである。
なぜ彼らはこれほどまでに丸の巨人移籍に言及するのかという素朴な疑問で、カープファンである久米はこのように発言している。「読売ジャイアンツという球団はお金はあるらしいんですけど、とにかく人のものを欲しがるんですよ。中日でホームラン王取った外人をすぐに取ったり、いくらでも出すからととにかく人のものを欲しがってしょうがないんです。
読売ジャイアンツというのは、金はあるらしいんですが、本当はとても心根が貧しい球団なんです」。お金の有る無しは企業自体の問題だから、読売やトヨタが批判されるいわれはない。久米の論理からすると、お金持ちが人のものを欲しがるのは心根が貧しいというが、お金持ちでなくとも人のものは欲しかろうし、それが実現できるか否かの問題では?