・介護に横やりを入れてくる義妹にどう対処すべきか
・人が交渉中に横やりを入れるのは失礼ですよね?(メルカリ利用者)
・私の接客中に必ず横槍を入れる先輩。すごく悩んでいます。
・人の会話に割り込んでくる人の心理って?
・人の恋路に横やりを入れる者のイタさ
・「でも、だけど」と、横やりを入れる人の理由と対処法
・隣に座った見知らぬ人が、私たちの会話に横やりを入れてきた。
・人が交渉中に横やりを入れるのは失礼ですよね?(メルカリ利用者)
・私の接客中に必ず横槍を入れる先輩。すごく悩んでいます。
・人の会話に割り込んでくる人の心理って?
・人の恋路に横やりを入れる者のイタさ
・「でも、だけど」と、横やりを入れる人の理由と対処法
・隣に座った見知らぬ人が、私たちの会話に横やりを入れてきた。
横やりとは横槍といい、戦場で戦う際に別の一隊がサイド (脇) から攻めてくることを意味した。そこから、談話や仕事に第三者が横から口を出して妨げることを、「横槍」、「横槍を入れる」などと使われるようになった。戦場における横槍 (サイド攻撃)は秀逸なる戦法で、これをやられると陣が乱れて兵は敗走することになる。関ケ原において小早川隊がこれをやった。
サッカーのサイド攻撃は、引いた相手を崩す戦術で多用されるが、人間関係におけるサイド攻撃は迷惑でしかない。「横やりで救われた」というのは皆無とはいわない。普通に芸能人で、さして頭のよくないローラが、自身のInstagramで、「美しい沖縄の埋め立てをみんなの声が集まれば止めることができるかもしれないの」と発言するのは何ら悪いことではない。
社会問題に関心を持てば視野も広がるが、人の発言を恰好の餌と待ち構えるネットイナゴたちがこれを逃すはずがない。ローラしかり、剛力しかり、インスタをやるには周囲を気にしない究極自己中であるのがいい。ローラ発言は他愛ないものだが、それを他愛あるものにするのがネットイナゴの力量だから、それに負けぬこともインスタをやるものの力量である。
批判の多くは、ローラの知識の浅さ・薄さだといい、彼女のインスタにはそれが満載という。例えば、「プラスチック製のストロー使用反対」と訴えながらも、その後堂々とプラスチック容器に入ったサラダや飲み物をインスタで紹介していたこともあったりで、「ローラは矛盾している」などといわれるが、逮捕されるわけでもない。世間は人に厳しく自分に甘く、寛容さはないのでほっとくのがいい。
人が口を開けば矛盾が発生すると思う自分に、他人の矛盾の指摘は無用である。若いころは他人の発言を「矛盾だ」の、「言行不一致だ」のと責めたりもしたが、若さはバカさと今は懐かしい。だからか、目くじらを立てる若者の理解はする。人の意見に横やり入れるを、「チャチャを入れる」というが、「チャチャ」とは、「茶々」と書く。ついでに語源を調べてみた。
有力な由来と思われる二つ説があった。一つ目は人名からである。その人の名前こそが秀吉の側室であった、「茶々」である。茶々は、近江国大名浅井長政の娘で、母は信長の妹「お市」。秀吉が市に片恋慕していたのは周知の事実であるが、市は猿を嫌って美男の長政に嫁ぐ。夫婦の三人の娘の中で、もっとも母の面影を一番よく受け継いでいたのが、「茶々」であった。
秀吉は後年茶々を側室に迎えた。それが淀君である。惚れた弱みかブサ面男の性か、秀吉を尻に敷きまくった淀君があれこれ指図をし、横やりを入れたりのを、「茶々を入れる」とした。嘘でもよくできた逸話である。もう一つの説は、邪魔をするの「邪」の、「邪邪」が、「茶茶」に変わり、転じて、「茶々を入れる」になったというが、こちらは信憑性が薄い。
「茶々が茶々を入れる」言い方がユニーク。とはいえ、淀殿存命中に、「茶々を入れる」という言葉はなかったろう。もしも秀吉が側近用の隠語として、「淀が茶々を入れる。うるそ~てカナワンわ」などが淀の耳に入らば、「何いうてまんの?秀ちゃんあんたアホちゃう?」と茶々をいれたろう。「惚れた者の弱み」というが、女房に甘い男は茶々入れられまくりだ。
さて、ローラのフランキー発言だが、噛みつく者の度量を責めても埒はあかない。ネットイナゴはみな頭から袋をかぶっている。そこに同類の言いたがり屋タレントが横やり参戦するのがみっともない。テリー伊藤や西川史子ら番組レギュラー陣を先頭に、高須院長の、「僕なら(CM)降ろします」発言に噛みついたのが、「ウーマンラッシュアワー」の村本大輔。
村本はローラ擁護発言として、高須院長を批判する。そこに待ってましたとばかり、「横やりレギュラー陣」の小林よしのりとフィフィが参戦。横やりとは賛同・批判もどちらも含む。横やり主義者には、「なぜ自身の辺野古移設工事についての所感を述べないのか?」というのは愚問である。彼らは人の意見にあれこれ横やりを入れる専門家であるからだ。
その心底を分析すれば、他人の尻馬に乗るのがとりあえず無難という姑息さであろう。卑怯とまではいわぬが、言い出しっぺで叩かれた過去の経験則が、横やり主義に行きついたとみる。小林もフィフィも過去にこっぴどく叩かれたようだ。それでも口から生まれてきた類の人間は、何かを言わずにはいられない。ならばと、人の発言に参戦するのだと自身を充足させている。
「やれやれ、もっとやれ、もっと出てこい」と横やりを面白がる者もいるのだろうが、これほど煩わしいものはないと自分は感じている。雨後の筍のように、どんどん現れ、それらがSNSのトップ見出しに名を連ねるからである。いちいち取り上げることもないと思うが、ネットのトップ見出しも週刊誌の吊広告と同じもので、万人受けを狙っているのは歴然である。
高須院長が村本発言に対処する前に、出しゃばり百田がフライング参戦する。百田の意見など求めていないのに、高須院長も迷惑千万。「俺が答えるまで黙っとらんか、この〇ゲ!」と口には出さぬが自分ならそうだ。そうは言わず、院長もコメントを出す。つまらん横やり合戦の様相だ。ローラ発言はローラの問題、ローラが対処すべき。「横やり合戦、来年も続きそう!」。
などと、これも横やりか?横やり入れるものに、「横やり止めろ!」という横やりも横やりだろう。喧嘩で遣り合う者に、「喧嘩を止めろ」というのが横やりなら、傍観が正解なのか?喧嘩の理由も当事者同士の問題なら、周囲が止めろというのは「喧嘩がよくない」という単純な理由で、戦争はよくないと同じ事だが、どちらかに加担したり非難したりではない。
そうした揉め事に対する「仲裁」は、「お前らバカか!」という横やり叩きとして意味はあろうが、正しいとは思わない。好きにやらせておく、止めに入るも性格の問題だから自分は後者かと。他人の紛争を前で道徳家になるのを安吾は戒めるが、それも彼の性格であって、性格まで真似ることもなかろう。一年というのはなんと早いものか。 これにて本年はオシマイ。