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五賢人 坂口安吾 ⑥

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安吾作品の『戦争と一人の女』を漫画にしたのが近藤ようこなら、映画にしたのが寺脇研だった。寺脇研という名をどこかで聞いた人は少なくなかろう。彼は言わずと知れた元文部科学省の官僚で、「ミスターゆとり教育」と呼ばれたあの寺脇研である。なぜまた彼が映画を作ったのか?寺脇は映画評論家としてのもう一つの顔を持っていたのは知る人ぞ知る。

「好きこそもののナントカ…」というが、寺脇は映画が好きでたまらない人だった。広島県の教育長時代、「キネマ旬報」にピンク映画時評を連載していたが、県議会で問題にされて仕方なく連載を中止した。寺脇の映画好きはいささか偏りがあって、ロマンポルノとピンク映画を特に好んだ。それゆえに、「教育長としていかがなものか?」となってしまった。

寺脇は、「ゆとり教育」失敗の責任をとって文科省を辞め、憧れの映画評論家という肩書に収まった。さらには映画好きが昂じた事で、この際自分で映画を作ってみようとなった。ジャンルはいうまでもないピンク映画である。そもそもピンク映画の定義とは何ぞや?寺脇も寺脇なら拙者も拙者、嫌いではないので表題から外れてピンク映画の沿革など書いてみる。

その昔、「ブルーフィルム」というのがあった。性的・猥褻を主とした、「風俗小型映画」の俗称で、16ミリや8ミリ映写機用に作製された。昭和27年から昭和31年辺りが全盛期とし、小料理屋、旅館、温泉宿の奥座敷が上映場所に使われていた。日本人の性意識も大きく変わっていく中、当時、東京の浅草や吉原周辺には常設上映場が10カ所以上もあったという。

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我が大日本帝国は戦争に負けはしたが、性風俗関連に廃りはない。色好み相手の逞しき商魂というのか、その執念たるや凄まじい。銀座の高級クラブでも、「出張上映会」が開かれていた。医師や弁護士や議員らエグゼクティブ階層たちのささやかな享楽である。ブルーフィルムの名称は、アメリカのポルノフィルムが青く着色されていた事に由来する言い方ともいうが。

実は、あちらでは何故"青"なのかには諸説あり、「内容が法的に危ないので青みがかった現像をすることでセーフにしていた」というものと、「かつて行われていたアメリカの検閲では、性的な項目に青色でチェックを入れていた」というのも信憑性がある。なぜか国によってエロい系の色が違っている。英語圏は、「Blue Film」といい、日本では、「ピンク映画」という。

中国では、「イエロー映画(黄色電影)」といい、 スペインでは、「グリーン映画(Cine verde)」という。イタリアでは、「レッド映画(Film rosso)」と赤に変わる。"シモネタ"をアメリカでは、「Blue Joke」というが、日本でなぜ、「ピンク映画」といわれたかについて、内外タイムス文化部記者だった村井実による命名というのが通説となっているが、これには疑問符がつく。

1983年に出版された村山の著書『ポルノ映画おもしろ雑学読本』と、1989年出版の、『はだかの夢年代記 ぼくのピンク映画史』に、『情欲の洞窟』という映画をピンク映画としたとの記述がある。ところが『情欲の洞窟』の記事が掲載された1963年9月9日の7ヶ月前の同年2月9日、「ピンク映画」という言葉の初の使用例が内外タイムスにあった事実が見つかった。


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当時内外タイムス文化部は10人の記者がいたが、実は村井と同じ記者仲間である斎藤龍鳳がコラムで使用したというのが関係者の一致する真実のようだ。ところが斎藤龍鳳が43歳の若さで急逝したのが1977年3月、村井実がピンク映画の名付け親だと主張しだしのは斎藤龍鳳の死後のことである。となると村井は、「死人に口無し」を利用した可能性が高い。

村井実であれ、斎藤龍鳳であれ、「ピンク映画」という名称の名付け親を自負するほどの文化的価値はなかろう。ピンク映画はやがて死語となり、今はエロ映画という呼び名に変わった。1980年代初頭にタモリがいい始めた、「ダサい」は、「駄埼玉」から得た語源である。もしタモリの目に埼玉より千葉が、「駄」と映っていたなら、「ダサい」は、「ダちー」だった可能性が高い。

ブルーフィルムもやがてビデオデッキの出現で消えていく。当時の人気作品内容では、セーラーもの、看護婦ものは人気があった。前者は憧れの桃尻娘、後者は、「白衣の天使」の一面を持ちながらも、男ひでりの女世界にあっては、「脱衣の天使」となる。巫女ものも需要があった。巫女もの人気が高い理由は、神へ奉仕する女性だからであろう。男は奉仕を喜ぶ。

いわずとしれたコスプレのニセ巫女である。白衣を着れば看護婦、巫女装束を着れば誰もが巫女になる。看護婦は白一色だが、巫女はなぜに紅白なのか?巫女の歴史を紐解くに最も古い巫女は古事記までさかのぼる。天照大神が天岩屋に閉じこもった時、岩の外で舞ったのが天細女命 (あめのうずめのみこと)。太陽神へ舞いを奉納したのが巫女の始まりとされている。

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巫女装束は昔から赤白だったわけでなく、平安時代には好みの色の袴を身に着けていた。室町時代初期のころから赤い袴が定着し始めたと考えられている。現在の赤い袴と白い白衣の巫女装束は明治時代になる。維新後に政府は神社祭祀制度を見直し、宗教について定義をした。同時に巫女の立場と衣装について明確に定義され、赤い袴と白い白衣になったという。

スケベな友人が、「巫女を犯してみたい」という。「嫁に着せたら?ネットで売ってる」と教えるも、「巫女ババァはいいよ。あいつに巫女の衣装を着せても神聖にはならん」という。「それもそうか…」と、腹で納得する。肌の露出多きもいいが、和服に漂うエロチシズムもいい。古代衣装の十二単は脱がすのも大変、長い竹の節をくりぬいて庭にオシッコ流してた。

引力のせいでか話は落ちるばかり。映画好きがたたって映画作りを模索した寺脇だが映画は金がかかる。が、ピンク映画は低予算で行ける。4~5百万程度なら文科省の退職金で何とかまかなえる。話は進み、どういうピンク映画を思案した結果、戦時中物がよかろうとなった。さて、誰にシナリオを誰に頼むかで白羽の矢を立てたのが知人で脚本家の荒井晴彦である。

荒井は、『Wに悲劇』、『ヴァイブレータ』などを手掛けている。寺脇が駆け出しの映画評論家だったころ、映画を貶して絡まれることがあっても荒井とはひょんなことで息があった。二人は交友があったが、荒井は寺脇に60万円の借金があったという。それをチャラにするという条件で、荒井に脚本依頼をとりつけた。台本は坂口安吾の『戦争と一人の女』と決まった。

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