日本家屋の床の間についてタウトは、「地球上のどこにおいても達成され得なかった所の、まことに世界の模範と称しても差し支えない一つの創造物」と大袈裟に絶賛し、「模倣によりて美は消失する」とする。一転安吾は、「模倣と反復こそインスピレーションの源である」と喝破する。想い出すのは稀代のピアニストと名を残すホロヴィッツの言葉である。
「私は若いころから、著名なピアニストたちの模倣ばかりやっていた。が、ある年齢に達すると、ちっとも面白くなくなってきた」。将棋の升田幸三もいう。「若い者は人を真似て腕をあげればいいが、ある程度強くなると自然と自分の流儀がでてくる」。芸術とは自然の模倣である。タウトの極度な床の間絶賛は、アメリカの暖炉を絶賛しているようなものだ。
「ゲーテがシェイクスピアの作品に暗示を受けて自分の傑作を書き上げたように、個性を尊重する芸術においてすら、模倣から発見への過程は最もしばしば行われる。インスピレーションは、多く模倣の精神から出発して、発見によって結実する」(坂口安吾:『日本文化私観』より)。芸術家は「無から有を生む」というのは、どうやら真実ではないのだろう。
安吾語録は若き自分に目から鱗が落ちるどころではない。「赤頭巾ちゃん如く狼に殺されても悔いのない親切こそ本当の親切である」に触発された。無意識でなされる「上辺の親切という偽善」の理解に何十年かかっただろうか。「めいめいが各自の独自な誠実な生活を求めることが人生の目的でなくして、他の何が目的だろうか」。安吾の言葉は人生の指針となる。
そもそも誉め言葉において、具体性を欠いた抽象的な表現じたい、サービス精神やてんこ盛りであろう。太っている女性を褒めるのに、「健康的ですね~」というようなもので、これを発するときは信憑性があるかの如く注意が必要。スマートな女性に、「スタイルがいいですね」というのは難しくはないが、拒食症の激痩せ女性に「健康的でないね」とは言えない。
「健康的だね」といわれた女性がどのように受け取ろうとも、社交辞令言葉に責任はとれない。もっとも安吾は、「大根脚は隠せ」という表題エッセイを書いていられるほどに親切極まりない作家だが、面と向かって直接言うわけではないので被害女性は生まれない。このエッセイのなかに赤頭巾ちゃんのことを書いている。初めて読んだときは驚くばかりだった。
「フランスの童話に『赤頭巾』というのがあって、親切な少女が森の婆さんを見舞いに行って狼に食べられる話がある。だから親切にするなというのではないので、親切にするなら小平(強姦魔の小平義雄)や狼に殺されるのを承知の上で親切にしろというのだ。親切にしてやったのに裏切られたからもう親切にしないという人間は始めから親切などはやらぬことだ」。
美談童話を自己責任にまで昇華させる安吾は、西洋人の合理主義を理解する。甘い感傷より危機管理意識の大切さこそ児童文学であるべきかと。「大根脚の女性は隠しなさい」というのも安吾流の本質・実利であって、それをデリカシー無きと吠えるなら、「まことに世界の模範と称しても差し支えない一つの創造物」などの西洋人の世辞の類にうつつを抜かしておればいい。
外国人男の基本は下心満載のドンファン的である。「女性にお世辞を言った時に、『お世辞なんか言わなくて結構です!』といわれた場合にどう答えればいいのでしょうか?」と聞いてきた男がいた。「そんなこと自分で思いつかないのか?」と不甲斐ない男と思いながらも答えた気はするが記憶にない。今ならどういう風に答えるのだろうか?試しに考えてみた。
おそらく自分らしい言い方は、「お世辞って見え透いてるからバレバレだろうね。僕は思ったことをいう性格だから」。この言葉を直感で理解する女は頭がいいが、足りない女性には回りくどくて理解に手間取る。あるいは理解できない。これは読解力(理解力)という能力の問題であり、「お世辞なんかいわなくていい」という女性は大体においてクレバーである。
そういう女性に対処できるのはひとかど男。「お世辞を言えば木に登る女が向いてるんじゃないか」と言いたいところだが口に出すこともない。「自分で考えるんだな」というだろう。くだらぬマニュアル本にはあれこれ書かれてあるが、自分は安吾譲りの本質・実利派である。ブログも文章であり相手を特定していないゆえ、「大根脚は隠せ」程度の親切は言っている。
なにより安吾を読む人は、「正直に生きたい」との心構えをもつこと。でなくば何も見えない。例えば次の言葉。「すべて世の謹厳なる道徳家だの健全なる思想家などというものは、例外なしに贋物と信じて差支えはない。本当の倫理は健全ではないものだ。そこには必ず倫理自体の自己破壊が行われており、現実に対する反逆が精神の基調をなしているからである」。
「善意」というのは案外と強制である場合が多く、本人が「善」と思ってるところが侘しい。宗教家は、「あなたの幸せを願って…」というが、これは生命保険のおばちゃんのいう言葉と何ら変わりない。「不倫」が倫理であらずと躍起になるウルサ型連中は、不倫以外に行っている自らの不倫理、非道徳に目が行っていないのだろう。まことにご愁傷様である。
愛欲や放埓について安吾はいう。「ただれた愛欲、無軌道な放埓の中からも、やがてそこに高い魂が宿るようになえうものだ。ただれた愛欲はいつの世にもあるもので、娯楽のせいじゃなく、人間のせいだ。娯楽が人間の劣情を挑発するというのなら、娯楽を禁止して、娯楽なき健全世界を創るか。これが健全だというなら、私は不健全、私は不健全を名誉とする」。
「君はなぜ強制に従うのか?」と聞いてみるに、「相手が怖いから」と答える者は多かろう。そういう者に対して安吾はこのようにいう。「ただこれ強制に服する根性というものは、己以下の弱者に対しては、ただこれ強制する根性なのだ」。会社、学校、サークル、団体、そうした共同体の中で派生する同調圧力はあろうが、上に媚びる人間の多くは下に威張る者多し。
それらはいじめにもつながることにもなるが、「我が自由は何をおいても断固守り通す」、「守ってよい」という考えは安吾のみならず、人間の生きる基本である。「上にへーこら、下にはおいコラ!」という言葉があるが、上にそうだと下にもそうだと安吾はいう。カカア殿下で尻に敷かれた男ほど会社で威張っているのも、実態を如実に表している。んとちゃうか?