ブルーノ・タウトは、ドイツの東プロイセン・ケーニヒスベルク生まれの建築家で都市計画家でもある。鉄のモニュメント(1910年)、ガラスの家(1914年)が評価され、表現主義の建築家として知られる。 晩年はナチスの迫害により、亡命先を探していた際に、上野伊三郎率いる日本インターナショナル建築会から招聘を受け、1933年に来日し3年半滞在した。
来日の翌日、京都の桂離宮へ案内されたこともあって、桂離宮を世界に広めた最初の建築家であった。が、タウトは日本滞在中、建築方面の仕事に余り恵まれなかったことを少なからず不満に思っていたという。その一方で建築理論の構築に勤しみ、桂離宮を評価した本を著したり、熱海の商人・日向利兵衛別邸でインテリアデザインを行ったりもした。
外国人が日本文化の能や歌舞伎をべた誉めするのは礼儀という側面もあろう。タウトの日本褒めにも多少の盛った感はある。そのタウトはなぜか新潟市を、「日本で最も俗悪な都市」と書いているが、いうまでもない安吾の故郷は新潟市である。『日本文化私観』のなかで安吾は、「京都や奈良の古い寺がみんな焼けても、日本の伝統はびくともせんよ」と叩きつけた。
『ブルーノ・タウト 日本美を再発見した建築家』という著書を書いた日本人もいるが、安吾は死んでもそんなことは書かない。タウトはある日、日本の富豪の接待を受けた。客は十名余りであったが、主人は自ら蔵と座敷の間を行ったり来たりで、所有する一幅の掛物などを床の間に吊し来客に披露した。名画を披露するのは自慢というより自己満足であろう。
『日本文化私観』のなかでこのような慧眼を述べた文もある。「伝統とか、国民性とかよばれるものにも、時として、このような欺瞞が隠されている。およそ自分の性情に裏腹な習慣や伝統を、あたかも生来の希願のように背負わなければならないのである。だから、昔日本で行われていたことが、昔行われていたために日本古来なものだということは成り立たない。
外国において行われ、日本には行われていなかった習慣が、実は日本人に相応しいということも有り得るのだ」。こういうところが、安吾の安吾たるところで、自分が多くの影響を受けた点である。日本人は物事を決めつける人種であり、その意味で思考が狭隘であり矮小である。AはBであり、よってBはCであるという三段論法は西洋から輸入した思考である。
「島国根性」と揶揄されるのは、鎖国によって立ち遅れた部分もあるのだろうか?それとも陸続きで侵略をされることのない鷹揚とした平和ボケ民族そのものであろうか。物事にはあらゆる可能性があるものだが、決めつけることで収束を図ろうとするのも、「和を以て尊しと成す」ということの由来なのか。言い放題、好き放題ではまとまるものもまとまらない。
「和」とは平和の和、融和の和である。日本人が妥協がよくないとするのは、聖徳さんの一言が揺るがぬ日本人気質を育て、妥協を苦渋の決断と考えるようになったのだろうか。英語では妥協を、「compromise」といい、英英辞典によるところの意味は、「望んだものすべてではないが、お互いがその一部を得る」とあるように、日本語でいう妥協のマイナスイメージはない。
話を安吾版『日本文化私観』に戻す。「日本精神とはなんぞや?」という命題を自らに課しながら安吾は、「日本人がそういうことを論じる必要はない」というのである。安吾にいわせると、「日本精神というものが説明づけられるはずもない。また、説明づけられた精神から日本が生まれるはずもない」とし、彼はこのような独自の見解を提示するのである。
「日本人の生活が健康でありさえすれば、日本そのものが健康だ」。「堕落することで自分自身を発見せよ」などと印象的な言葉の多い安吾は、何事をも実質・実利に徹底してか、『日本文化私観』をこのような言葉で締めている。「我々の生活が健康である限り、西洋風の安直なバラックを模倣して得々ろしても、我々の文化は健康だ。我々の伝統も健康だ。
必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生まれる。そこに真実の生活があるからだ。そうして、真に生活する限り、猿真似を羞ることはないのである。それが真実の生活である限り、猿真似にも、独創と同一の優越があるのである。久しぶりに安吾の『日本文化私観』を読み終えて、新たな感慨に襲われた。
「必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば…」。あらためて安吾の言葉を思い返すと、東北大地震の福島原発や各地の豪雨災害で被害にあった人たちのことが頭を過る。学校の体育館なども被災者の一時避難に使われたりする。公園も体育館も必要な施設であるが、何より大事なのは人間の生活で、それこそが安吾のいう実利・本質である。
「衣食足りて礼節を知る」というように、礼節は社会生活に大事であるが、それも衣食足りてこそである。資産家が蔵に骨董品や掛け軸をため込み、来客に披露して自己満足に浸るのはいいけれども、被災者を招いて炊き出しをすることこそ、人間の社会的実利であろう。いかにおバカな資産家といえど、被災者を招いて玉泉、竹田、鉄斎の掛け軸を披露することはない。
安吾の『堕落論』、『青春論』、『我が人生観』や『日本文化私観』には、哀しいかな動物である人間への愛しさについて書いている。聖書や仏典や観念哲学や道徳法則のようなことは一切書かれてはいないが、「俗悪の発見」にこう記している。安吾のいう俗悪とはいかなるものか。信長が安土に立派な寺を建てようとしたことについて安吾は記している。
「織田信長のような、理智と、実利と計算だけの合理主義でも、安土に総見寺という日本一のお堂を建てて、自分を本尊に飾り、あらゆる日本人に拝ませようと考えた。着工間もなく変死して工事は地ならしに着手の程度で終わったらしい。秀吉が大仏殿を建てたのは、その亜流であった。自分よりもお堂が立派だということをミイラどもは告白しているのである。
彼らは人を見下していたが、いつも人に負けていた。そして、他の人には造れない大きなお堂を造らないと安心できなかった。あわれなミイラどもよ」。いつにもまして痛快なる安吾の物言いであるが、宗教施設の大きな建造物について思うことが。趣向を凝らしてはいるが、色物甚だしき外観である。信長も秀吉も家康も権威なら、キリストも釈迦も権威に祀られる。
即ち宗教が権威であるのは、いかなるためにか。人を救うものは権威が必要なのか?いずれに宗派の高僧たちは立派な召し物を纏っている。随分お高い衣装と思うが、大川隆法に至ってはチンドン屋である。そんな彼が「私があの釈迦であり…、神です。」といっているのだからビョーキだろう。それとも、笑いをとるために彼は頑張っているのかも知れない。
新興宗教のイカレた教祖がこうした格好したがるのは分からなくもないが、思うに信者たちはこうした出で立ち(新しい言葉でコスチューム)を纏った教祖を恥ずかしいと思わないものなのか?そこは理解できない。学芸会じゃあるまいし、まともな理性を持った信者と思うなら、こんないかにも的な格好で現れるなんか恥ずかしくてできないと思う教祖こそ、"まとも"と感じられる。