著書『暗い青春』のなかで安吾は、「私は共産主義は嫌ひであつた。彼は自らの絶対、自らの永遠、自らの真理を信じてゐるからであつた」 (中略) 政治とか社会制度は常に一時的なもの、他より良きものに置き換へらるべき進化の一段階であることを自覚さるべき性質のもので、政治はたゞ現実の欠陥を修繕訂正する実際の施策で足りる。政治は無限の訂正だ」 (中略)
自らのみの絶対を信じ不変永遠を信じる政治は自由を裏切るものであり、進化に反逆するものだ。私は革命、武力の手段を嫌ふ。革命に訴へても実現されねばならぬことは、たゞ一つ、自由の確立といふことだけ。私にとつて必要なのは、政治ではなく、先づ自ら自由人たれといふことであつた」。このくだりは印象的だが、「自ら自由人たれ」とは非政治的ではない。
なぜなら、「自ら自由人たれ」を核とする政治思想があるからだ。これをアナキズムといい、しかるに安吾はアナキストである。アナキズムとは反秩序、反権力、混沌を渇望し、偶像破壊的であるを意味する。作り上げる者もいれば壊す者もいる。どちらが面白いかは人それぞれだが、後者を好む自分は骨のあるアナキストではないが、反権威で生きてきた。
権威という看板を好み、権威に迎合する人間を周囲に置かなかった。これは好みの問題で、かといって反権威で徒党を組むのも好まない。別段、何かをやるとかでもなく、自身の生き方の指針である。「先ず自ら自由人たれ」と安吾はいうが、自由とは、「他人の自由を犠牲にする」ことによってはあり得ない。自由とは必然的に平等を要請するものである。
ルソーはそのために『人間不平等起源論』を書いた。カントの道徳法則は、「他者を単に手段としてのみならず、同時に目的として扱え」とあるが、決して「他者を手段としてではなく、目的としてのみ扱え」という意味ではない。なぜなら、他者を手段として扱うことは絶対に避けられない。よって、手段と同時に他者を目的として扱うようすべきといっている。
この場合の目的とは、「自由な存在」の意味で、決して難しいことではない。親が子どもの幸福を真に望むのと、親自身の見栄による自己実現手段として子どもを扱うのと、どちらの親が多い?せめて、正しいのはどちらであるかくらいは知っておくべきではないか。子どもは親の所有物ではない自由な存在とし、その範囲内で子どもの幸福を願えばいいのだが…
傲慢な親は好きでないし、傲慢な人間も好きでない。よって自分は傲慢な親にも傲慢な人間にもなりたくない。嫌っている者になりたいはずがない。人を嫌うことが自己向上に寄与するなら大いに嫌えばよい。自分が嫌なものは徹底して嫌えば、そんな自分にならないでいれる。自分の親を徹底的に嫌いながらも自分が同じような親になるのはバカの遺伝だろうか?
貸した金を返さない人間を嫌いながら、同じような人間に自分がなるってどういうことだ?理由は簡単、自分のことを自分が見えないからだ。意識というのは目には見えないものだから、意識をしかと見る目を養うしかない。また、他人からの批判は冷静に正確に分析するべし。おかどちがいな批判は感情的なものであるから、気にせずただの情報と捉えて無視をする。
正しい批判は耳が痛くとも受け入れ、自尊心をむき出して戦わないことだ。人は自分の都合の良いように他人を投影して見るものだが、正しい批判は親身な言葉として素直に聞き入れる。親身であるか嫌味であるかは、相手をしかと洞察する力も必要だ。もっとも大事な友人の場合、すべて親身と受け取ってよかろう。友人は堅いベッドにもなり、良薬にもなる。
人は絶対的孤独というが、他の存在を自覚してのみ絶対孤独もあり得よう。そうではなくて、無自覚で盲目的な孤独はプラスにならない。そういう孤独は地中に存在する芋虫が如き孤独である。若い時には好んで、「偶然」とか、「運命」とかの言葉を口にしたがる。それによって人間を達観した気になるのだろうが、年を重ねて物事が分かってくる変わってくる。
50歳を超える年齢になると、自分の生活や日々の生き方が運命とか偶然の産物ではなく、他ならぬ自分がいつとはなしに作り上げたと知るようになる。人生とはそういうものだ。自らが生き立っている生活の地点、例えば妻と子ども三人を持ち、日々の仕事に精を出す生活は、自分自身の手によって作り上げられたもの。その意味で自身に責任を持たねばならない。
運命や偶然が人生を作るのではなく、人が人の人生を作ってゆく。選んだ仕事も、伴侶も、二人で作った子どもたちも必然的なもの。偶然の仕事、偶然の巡り合いなどは思いたい人の感傷である。何事にも、「意志」が存在し、存在していたのだと分かる年齢になった時、お伽噺如き運命論とは決別する。自分は確実に何かをしたのだとの自己責任に立ち返る。
自分は安吾の何を最初に読んだか。『堕落論』ではなくて、『日本文化私観』だったように記憶する。同著は『堕落論』や『白痴』とならんで安吾の代表作ともいえる論評で、ブルーノ・タウトによる同名著作に反発して書かれたパロディーであることは知られている。タウトの『日本文化私観』は1936年に著され、安吾の『日本文化私観』は1942年である。
この中で安吾はタウトのオリエンタリストぶりを批判して見せた。「タウトごときに日本の何が分かるのだ」といわんばかりの安吾にとって、日本人が健康である限りの日本文化はいつでも形を変えて再生存続するという自負があった。それらを骨董品を眺めるが如く遠方から評価したり、外圧による文化の正統性を担保するやり方に我慢ならなかったのだろう。
「タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。我々は古代文化を見失っているかも知れぬが、日本を見失う筈はない。日本精神とは何ぞや、そういうことを我々自身が論じる必要はないのである」。戦争に負けて忸怩たる日本人に心地よい安吾の物言いである。舶来信仰に日本文化まで売り渡すこともない。
安吾の反逆精神は論理を武器にタウトに襲い掛かる。タウトが称揚した日本の伝統文化を、逆手にとって近代文化・民衆文化で相対化してみせた。決して抽象的で観念的な政治的イデオロギーではなく、「生活の必要」、「実質」、「やむべからず必要」といった、世俗的世界における清濁併せ呑みながらの生きるリアリズム、これこそが安吾礼賛の本質である。