坂口安吾に賢人の称号は似合わない。堀と坂口(以後は安吾)は4歳ちがいなのに堀は85歳と長命だったが、安吾は49歳の若さで急死した。安吾は2月17日の早朝、「舌がもつれる」と言いながら突然痙攣を起こして倒れ、7時55分そのまま永眠する。脳出血だった。葬儀は2月21日に青山斎場で行われ、尾崎士郎、川端康成や佐藤春夫、青野季吉らが弔辞を読む。
川端康成は、「すぐれた作家はすべて最初の人であり、最後の人である。坂口安吾氏の文学は、坂口氏があってつくられ、坂口氏がなくて語れない」とその死を悼んだ。墓は故郷の新潟県新津市大安寺(現・新潟市秋葉区大安寺)の坂口家墓所に葬られた。ただし、墓には安吾の名や戒名は一切印されていない。理由は推測だが、安吾は故郷も実家も嫌っていた。
安吾といえば汚い部屋の衝撃的な写真である。また、彼のエッセイにしばしば登場するヒロポン(アンフェタミン系の向精神薬)愛用者だった。ヒロポンは戦前に軍部を中心に、「疲労回復・眠気を飛ばす」の名目で副作用の危険性が知られていなかったため積極的に使用されていた。野戦病院では麻酔の代わりにも使われたようで、多くの中毒者を出している。
ヒロポンの他にも睡眠薬を常用した安吾は、競輪の不正を訴えた人でもあり、ライスカレーを百人前頼んだことでも知られている。ところで今はライスカレーとはいわない。カレーライスとどう違うのかについて、ハウス食品オフィシャルサイトのなかの、「カレーこんな話あんな話」説明がなされている。ライスが多い、別々の容器で出てこない、などは俗説である。
ところで安吾がライスカレーを百人前頼んだ事実はあっても、なぜそうしたのかについて書かれてはいない。精神が不安定もしくは精神錯乱状態というのもあるが、その時の状況だが、檀一雄宅に身を寄せていた安吾が妻に、「ライスカレー百人前頼んでこい」といいつけ、妻は近所の食堂に頼みに行った。次々と運ばれてきたライスカレーは庭に積み重ねられたという。
その時の様子を檀一雄は、「言い出したら絶対引かぬ男」と書いている。それを知る妻も、「なにバカなこといってんの!」などと反抗もせず、頼みにいったのだろう。もし誰かが理由を聞いたら、「理由?そんなものありゃせん。頼みたいから頼んだのよ」というのかも知れない。合理的で真っ当な理由はないのだから、そのように答えるしかなかろう。
安吾といえば49歳で亡くなった。死因は脳溢血であった。体力には自信があったらしいが、三千代夫人がいうには、「自分の頑健さに自信があったがゆえに、油断があったのかも…」といっているが、脳溢血とあっては体力で太刀打ちできない。それにしても三千代夫人の内助の功というのは計り知れない。というのも、安吾は図体もデカいし、覚醒剤に睡眠剤に酒と暴力だ。
夫人が男児を出産した時は、取材先にいた安吾が旅館に呼んだ芸者を全身にアザが残るほどに殴りつけて留置場にいたというし、出産を終えて自宅に帰ってみると、取材旅行から帰った安吾が家にいて、夫人が赤ん坊を差し出すと、安吾は子を受け取らずに暴れだした。夫人は赤ん坊を抱きしめて逃げたというが、先のライスカレー百人前をいわれるままに頼みに行く夫人である。
安吾の女房というのは、これくらいでないと務まらないということだ。亭主関白で夫唱婦随が当たり前の時代とは言え、ナイーブでロマンチストで愛妻家の堀秀彦と比べると安吾は野獣であが、どちらも妻も夫はこういうものだと不満はなかったろう。安吾の暴力は、ヒロポンやアドルムなどの薬物中毒と依存症、さらには背後にあった鬱病による苦悩という風聞がある。
安吾は42~43歳ころ、鬱病治療のために東大の神経科に入院したが、当時の様子を、「僕はもう治っている」、「精神病覚え書」、「わが精神の周囲」、「安吾巷談~麻薬・自殺・宗教」などのエッセイを書いている。作家の苦悩とは、沈んで書けない、だから覚醒剤の力を借り、結果眠れなくなる、だから睡眠薬に頼る。その酩酊から目覚めを求め、また覚醒剤で筆を進める。
こうした作家という職業そのものが慢性的な薬漬けとなり、睡眠不足から睡眠剤を常用した結果、朦朧状態の心身を覚醒させないと書けなくなるという、中毒~依存の病態が延々と続くことで、日々の生活は錯乱したものとなる。これは安吾自身も自覚しいるが、さするに普段の狂乱状態というのはは、三千代夫人の『クラクラ日記』のなかでも生々しく語られている。
アドルムは強力な効能を持つ睡眠薬で、依存性も高うので使用量も増える。安吾の場合は、通常は二錠が適正量でありながら、致死量をはるかに超える一日五十錠というから、相当の中毒状態であった。薬物中毒の本質というか怖さは、特別な効果や中毒していることを認識できない状態――こそが中毒の基本態というようにである。そんな安吾はこんなことを言っている。
「私の精神が異常であるのは、私の作品が健全のせいだ」(『わが精神の周囲』)
以下は安吾の『暗い青春』の出だし。「まつたく暗い家だつた。いつも陽当りがいゝくせに。どうして、あんなに暗かつたのだらう。それは芥川龍之介の家であつた。私があの家へ行くやうになつたのは、あるじの自殺後二三年すぎてゐたが、あるじの苦悶がまだしみついてゐるやうに暗かつた」という書きだしながら、しばらく行を進めると急に方向転換する。
「私はこの部屋へ通ふのが、暗くて、実に、いやだつた。私は、「死の家」とよんでゐたが、あゝ又、あの陰鬱な部屋に坐るのか、と思ふ。歩く足まで重くなるのだ。私は呪つた。芥川龍之介を憎んだ。然し、私は知つてゐたのだ。暗いのは、もとより、あるじの自殺のせゐではないのだ、と。ジュウタンの色のせゐでもなければ、葛巻のせゐでもなかつた。
要するに、芥川家が暗いわけではなかつたのだ。私の年齢が暗かつた。私の青春が暗かつたのだ。青春は暗いものだ。この戦争期の青年達は青春の空白時代だといふけれども、なべて青春は空白なものだと私は思ふ。私が暗かつたばかりでなく、友人達も暗かつたと私は思ふ。発散のしやうもないほどの情熱と希望と活力がある。そのくせ焦点がないのだ。」
こういう仕掛けを最初に考えて書いているのではないことは想像する。なぜなら、自分なんかも思うがままに書きながらも、こうまでは上手くはいかないが、逆説的な肯定感にすり替える心地よさはある。すべて予定外の稿が突如頭に浮かんでくる。あらすじや意図をもって文字を埋める人もいるのだろうが、思うがままにの作為はない。だから駄文も仕方なかろう。