男が女性論を書けば当然ながら男目線になる。女の男性論は人にもよるが、女目線どころか、凄まじきほどに男をこきおろす。よくもここまで言えるものかと、女の悪口の才能に呆れるばかり。男が抑え気味なのは、実は女の仕返しを怖れてのことか?フェミニスト三名の鼎談形式になる『男流文学論』を読んだときは、途中で腹が立って読むのを止め本も棄てた。
今まったくときめかない上野千鶴子、富岡多恵子、小倉千加子らフェミニスト三名のゲテモノ本である。初版(1992年1月)の帯にはなかったが、売れない話題造りなのか、「逃げるな!読め。」と変更されている。吉行淳之介、島尾敏雄、谷崎潤一郎、小島信夫、村上春樹、三島由紀夫ら、6人の男流作家を三人の関西女が、「これでもか!」言いたい放題こき下ろす。
フェミニストというのは、男の悪口を肥やしに生きるしかすべがないが、「逃げるな!読め。」という下劣なコピーにバカ女らしさ漂う。「男旱(おとこひでり)の三バカ女」という自虐的な言い方なら共感を得られたかも…。フェミニズムが収束したのは、「男にいいところなど何もない」という独善感で、男をそこまで攻撃せねばならぬ女もどうしたものか。
男との同衾に実在感を抱く子宮感覚女性は、こうまで男をコケにはしない。同著書評のなかに、「恐ろしくつまらない本。富岡多恵子には素晴らしい小説もあるのに、こんな鼎談に参加してしまって残念」。この言葉を実感する富岡であろう。たまさかのフェミニン志向女性が、フェミニストの大親分と同席すれば、こうまで羽目を外すことになる事例の見本。
女の嫉妬というのは、男の嫉妬とはずいぶん異なるように感ずる。「男は女の過去に嫉妬する。女の嫉妬は男の今に嫉妬する」などを耳にする。すべてがそうとは言わぬが当たらずとも遠からず、確かに女は男の過去にはこだわらない。今がよければの幸せ感を抱くが、男が女の過去に嫉妬するのは、「彼女は自分のもの」感に蹂躙された情けなさとみる。
自分と彼女が出会う前の彼女を、どうして拘束できる筈がない。この物理的な在り方をなぜか飛び越えて心を痛める男の幼児性と自分は見るが、こうした物の道理の分からぬ男には、男としての烙印を押すしかなかろう。女の嫉妬の解消は、悪口三昧で気晴らしをすることが多い。他人と自分の感性が異なることの我慢ができないのは、これまた道理に合わない。
ある女がある女をこんな風にいう。「〇〇こそ高慢なしたり顔のとんでもない女。いつも悧巧ぶり、秀才ぶりをみせびらかしているがとんでもない。そんなのは勝手な思い込みでしかない。このように他人と異なる点を自慢して思いあがっている人間は、甚だしく見劣りし、行く末はろくでもないことになる…」と悪口・雑言、言いたい放題だが、二人はともに著名人。
原文はこのようになっている。「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍(はべ)りける人。さばかりさかしだち、真字(まな)書きちらして侍るほども、よく見れば、まだいとたへぬことおほかり。かく、ひとにことならむと思ひこのめるひとは、かならず見劣りし、行くすゑうたてのみ侍れば…。」手紙の主は紫式部である。式部にとって清少納言は「嫌な女」だった。
『紫式部日記』の世評だが、彼女は当時の女房のなかで、抜群の批評家であったとのいわれである。つまり、人間の「品定め」の名手であったこと。宮仕えのうちに知り合った女房たちの容貌風姿や心の状態から、和泉式部、赤染衛門、清少納言らに片っ端から批評を加えている。とはいうものの、紫式部自身は周囲の女房から、「嫌な女」と疎んじられていた。
彼女は清少納言を批判した後、急に筆を転じて自分の一身を振り返っている。女房たちの陰口非難にいかに苦しめられたか。古書を読み、漢字を書くといった行為に、どれほど嫌味を言われたことか。そうしたことを敏感に感じとって、次第に追いつめられ、自己一身のなかに堅く閉じこもろうとする侘しいこころを告げている。人を批判すれども我が身の切なさに苦吟する。
こうした情動はいかにも女性的なもので、現代も1000年前の女性にも共通する気質であろう。子宮が思考する事はないが、女は感性鋭いがゆえに、自らを滅ぼす感性すら持ち合わせ、この想いをどうすれば解消できるものかと思い悩む。「まして人のなかにまじりては、いはまほしきことも侍れど、いでやと思はえ、心得まじき人には、いひてやなかるべし」。
「物もどきうちし、われはと思へる人の前にては、うるさければ、ものいふことも憂く侍る」。「それ心よりほかのわが面影をば、えさらずさし向かひまじりたることだにあり」。意味は、「何を言ったところで誤解される。とくに我こそはと思ってる人の前では、煩わしいから何もいうまい。沈黙に越したことはない。さもなくば、仕方なく顔をつきあわせているだけ。
とどのつまりは、「ほけらるたる人(呆けた人)」の姿を演じるのが、窮地における彼女の唯一の態度であったのがわかる。才媛ゆえの苦悩であり、こうしたことは現代女性においても何ら変わりない。「ちょっと美人だからといってなにさま?」、「ちょっと頭がいいからといってなによ」と、こうした女性社会の嫉妬や雑言に、女性は耐えねばならない。
「男の人はいいね。女はめんどうくさい」。よく耳にした言葉。思うに女は孤独の中に生きられない種なのだろう。女も男と同様に社会生活(家庭を含めた)は必要とされるが、社会のなかに自分を埋もれて自分を忘却しているその姿こそが、女にとって最大の幸せなひと時ではなかろうか。ゆえに他人と自分との比較の中で羨望や嫉妬が生まれるのではと考える。
男は女社会に生息することはできないが、多くの女と交流することで、女の社会を垣間見ることはできる。疑似体験とはいえ、それらを知らないでいるより、多少なりとも知ることは女性の苦悩を知ることになる。男と女は相容れぬところもありはするが、でき得る限り互いの理解に努め、それを思いやり、いたわりあうことこそ、男と女の在り方である。
フェミニストたちの男批判はそうした目的を逸脱し、はかならずも自画自賛のための批判は女の実体的な矮小さを示すものである。批判というのは自己批判であれ他者批判であれ、究極的な目的は自己を向上させることにある。フェミニストたちが同性からの支持を得られなかった理由はそこにあった。男を吊るしあげて喜ぶ女は、ただの屁ミニストである。