「二つの死と二人の母」
以下は堀の著書の一文。「私の大学の私の学科に女子大学生は、この夏あろうことかあるあいことか、巣鴨駅の便所のなかで、狂人のような青年によって何のいわれもなく刺し殺された。それは真昼間の出来事だった。彼女は午前中ピアノのレッスンに行き、一度家に帰って出かけたところだった。私は彼女の母にこの何とも言えない悲劇があって今日まで三度会った。
以下は堀の著書の一文。「私の大学の私の学科に女子大学生は、この夏あろうことかあるあいことか、巣鴨駅の便所のなかで、狂人のような青年によって何のいわれもなく刺し殺された。それは真昼間の出来事だった。彼女は午前中ピアノのレッスンに行き、一度家に帰って出かけたところだった。私は彼女の母にこの何とも言えない悲劇があって今日まで三度会った。
そのたびに母はぽろぽろと涙を流して、『とてもあの子が死んだとは考えられないのです。あの子の部屋に入るとき、どうしてもそこにいるとしか思えないのです』と、私にかきくどいた。私はそれに対して何一ついうことも、慰めることもできないで、ただ黙っているよりなかった。母親にとって愛する娘の死はどんなにしても納得も信ずることもできない事実なのだ。
愛する者の死をそのまま動かぬ事実として受け止めることができないということこそ、その愛が本当の愛であったことのまちがいのない証と私は考えたいのだ。『愛は死を超える』というのは、愛するものが死んではならないのだという理不尽な要求を意味している。この激しい、「願い」、「命令」、「要求」、「あるいは理論」、それこそが愛の本質と思われる。
堀がそう思うのは堀自身の思いである。が、「受け入れられない」、「諦めきれない」のが愛の本質とは思わない。本質のなかの一面を堀は彼なりに考えているということだ。何をもって本質というか!そんなものは解釈のみが存在する。京都学派の哲学者である三木清は、「死は観念である」といった人。自ら自身が実際に死ぬまでにおいて、死は観念であろう。
が、自身の死が自身にとっての現実の死となる時、あるいは現実の死となった時、自分は自分の死を観念とすることはできない。つまり、自身の死とは、自身が生きてる限りにおいて、三木のいう通り観念なのである。不治の病にあって、余命を宣告され、毎日が死に近づいているとしても、死を観念として以外に捉えることはできないだろう。どこまでいってもである。
それに比べて他人の死というのは現実であるが、ここですこしばかり躊躇いがある。上記した母親が娘の死を受け入れられないというのは、母にとって娘は他人でないことになる。というより、他人であることは事実であるが、フィクションをリアルと感じるのも人間の思いであるように、母にとって娘は他人と思えないということだろう。これは思いである。
死は観念であるけれど、人間にとっての身近なものの死は観念などではなくなる。さらに三木は、「生は個別的であるが、死は一般的である」などという。なるほど、頭のよい人間は物事を斯くも見事に分析する。確かに三木のいうとおり、死は一般的であり誰の死においても個性はない。三島由紀夫の死が個性的ではなく、個性ある人間の死の選び方であった。
人にはその人なりの死に方があれど、それ自体が個性的な死と言わない。それに比べて人の生は見事に個性的である。百花繚乱咲かせようが、蕾のままであろうが、それぞれに個性的である。死に方の問題は、生き方の問題といえるだろう。賢者の死も愚者の死もなんら変わりのない死そのものである。さて、「二つの死、二人の母」について、他方の母とは…。
芥川龍之介の短編、『手巾(ハンケチ)』の主人公たる母である。幾度かこの母のことをここに書いた。母は世話になった息子の礼を兼ねて先生宅を訪ねたが、息子を7日前に亡くしていた。先生は、少しも自分の息子の死を、語つてゐるらしくないと云ふ事である。眼には、涙もたまつてゐない。声も、平生の通りである。その上、口角には、微笑さへ浮んでゐる。
これで、話を聞かずに、外貌だけ見てゐるとしたら、誰でも、この婦人は、家常茶飯事を語つてゐるとしか、思はなかつたのに相違ない。――先生には、これが不思議であつた。(原文まま)ところが、婦人が落とした団扇を拾うさい、先生には偶然婦人の膝が見えた。膝の上には、手巾を持つた手が、のつてゐる。勿論これだけでは、発見でも何でもない。
が、同時に、先生は、婦人の手が、はげしく、ふるへてゐるのに気がついた。ふるへながら、それが感情の激動を強ひて抑へようとするせゐか、膝の上の手巾を、両手で裂かないばかりに緊かたく、握つてゐるのに気がついた。さうして、最後に、皺くちやになつた絹の手巾が、しなやかな指の間で、さながら微風にでもふかれてゐるやうに、繍ぬひとりのある縁ふちを動かしてゐるのに気がついた。
――婦人は、顔でこそ笑つてゐたが、実はさつきから、全身で泣いてゐたのである」。(原文まま) これが息子を愛していない母の姿であろうか?眼に涙も溜めず、平生の通りの声で、口角に微笑さへ浮べ、少しも自分の息子の死を語つてゐるらしくないように見える母は、周囲から息子のことなど愛していないかのように見えるのか?そうではなかろう。
愛の本質とは、見える見えないではなう心の中の真実である。真意を隠そうとする者あらば、隠そうとしない人もいる。おそらく自身の問題としての他者への配慮と思われる。感情極まるのも周囲に配慮するのも人の思いである。それはまた、傍観者にとって好みの問題である。自分は後者を好ぬゆえか後者を選択し、行為をするが、露出と隠すは等分量である。
大泣きすれば感情が大で泣かぬ者は感情が小、あるいは無…。そんな風に人の見方はいろいろだが、人のために生きてはいない。自身における自身のための生き方、人生という風に定めれば、自らに忠実になればいいのであって、他人の方向をみない、顔色も伺わない。誤解も恐れない。人は好き勝手に思えばいい。そういう生き方を好んだ自分である。
自分に正直になるのは難しいと人がいう。なぜそうなのかよくわからないし、考えてみたところで他人の問題だ。自分に正直になるのは自然なことであり、楽だからやっている。難しいことなどと思ったこともない。堀の著書を読みながら思ったことは、堀という人間は自らに正直に生きている人である。堀は堀の正直さ、自分は自分の正直さ、同じ正直さであれ個々の違いはある。
堀がこのようにしても、自分ならそんな風にしないは、人間が異なる以上違いは当然にあり、批判のようで批判でない、生き方の選択である。「人間は何のために生きるか?」という問題に簡単に答えを出すなら宗教をもちだせばいい。自分という人間を計画的・必然的に造りだそうとした神や仏や、何かの強い力があるといえばいい。そんなものはない。事実は両親の性行為の賜物である。
子どもに問われてもそれ以外に答えようがない。が、そんなことは原理であって重視するものではない。大事なのは不可抗力で手にした命ををどう利用するかである。利用するか持て余すかは個々の問題、他人があれこれ言っても始まらない。価値の有る無も同じこと。法然がこんなことを言っている。「人の命はうまき物を大口に食ひてむせて死ぬることもある也。」