Quantcast
Channel: 死ぬまで生きよう!
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

五賢人 堀秀彦 ⑤

$
0
0
堀は1971年(昭和46年)、69歳のときに妻と永遠の離別をした。その時のことを堀は書いている。「7月23日の未明、妻は死んだ。すい臓がんと診断されて死んだ。3か月近くの病院生活で、妻はいやというほどやたらに「検査」され、くる日もくる日も、長時間の「点滴」を耐え忍びながら死んだ。(中略)愛するものの死は、死んだ瞬間から過去完了なのだ。

私は死というもののもっている意味と、生きているものとのその非情な断絶に、あらためて愕然とした。涙がとめどなく流れた。悲しみの涙というより、怒りと口惜しさの涙なのだ。なぜ人間は死なねばならぬのか?(中略)妻が死んで今日で十日になる。朝、目を覚ますや否や、私は簡素な仏壇に駆けつける。「お母さん!」と叫ぶ。涙がひとりでに溢れる。

イメージ 1

私はどうやら少しオカシクなってきたように自覚される。こどもたちも分別顔をして私に注意する。これからさき、私は何を張り合いに生きていくのか。(中略)「もし愛がなければ」私にしたってこのように狂気に近いむさぼりをむさぼることはしないだろう。愛とがかぎりなくむさぼることなのだ。本当の愛は心と心の触れ合いだというのは、本当ではない。」

心に残る文章である。このような文章をあまり見ないし、それくらい堀の切実な想いが伝わってくる。「自ら愛をむさぼる狂気性」と、堀がいうほどのことはある。妻の死後に堀は部屋のあちこちに引き延ばした妻の写真をかけ、妻に向けて語り掛けるという。「今朝も大きな声で、"お母さん!"と呼びかけたが、どの写真も黙っている。私は写真を破りたくなった」。

これらの行為は自分にはいささか異常にみえるが、堀は正常だろう。なぜ異常に見えるかといえば、死後に焼却して灰と骨になったという現実感を超えた、執着心に対してである。「どうしても現実を受け止められない」という人はいるが、人は誰も現実から逃れらるはずはない。受け入れなければどうにもならない現実を、なぜに受け入れられないのか、自分には分からない。

堀はクリスチャンを止めて無神論者になった。が、かつて子どものころに初めて通いだした教会に思い切って足を踏み入れたという。こうした行動も妻の死がもたらせたものだ。堀は牧師から、「むさぼりの罪」という説教を聞いた。この世のさまざまなものをむさぼることが如何に人間として空しいものか、牧師は鮮明に話たときのことを堀はこう書いている。

イメージ 2

「お金も土地も、何でもかんでも、いかほどむさぼり、それを手にいれたとしても、妻は二度ともどってはこない。それならば、妻の生命をいまいちど、むさぼることは罪なのであろうか。妻の文字通りのよみがえりを願い求めることは、人間としてむさぼりの罪を侵すことであるのか」。説教が終わって朝の礼拝は終わったが、堀は牧師に話したいと願い出た。

牧師は受け入れ、小さな別室で40歳を超えたあたりの牧師と向かい合って腰掛けた。20日前に妻が死んだこと、妻の死をあきらめきれぬことを、涙ぐみながらに堀は手短に話したという。そして思い切って心にわだかまるものを牧師に問い尋ねた。「死んだ妻のよみがえりを、生きていた日の妻のそのままのよみがえりを求めるのはむさぼりの罪なのでしょうか。

たとえそれがつみであっても、私はもう一度妻に会いたいのです。もう一度この世で妻と話をしたいのです。もちろん、それが絶対に不可能だと知っています。知りながら、その不可能を求めずにはおれないのです。私は奇蹟を求めているのです。いや、私が求めているのではない。妻へのこの切ない愛が求めているのです。これは人間の傲慢なむさぼりなのでしょうか。教えてください」。

この記述から堀は常軌を逸していると感じた。同時に50年以上前にキリスト教を捨てた堀が、藁をも掴む切ない気持ちで再び教会に足を踏み入れ、妻へのむさぼりの気持ちを牧師に告白するというあられもない心情は一筋縄とは思えぬ理解を超えている。宗教とはそういう人のためにあるものなのか?堀の執拗な言葉に牧師は、「私にはお答えできません」と答えた。

イメージ 3

その時の様子を堀はこのように書いている。「その言葉は、私を突き放すといった調子ではなく、むしろ、"気の毒なひとだ"といった憐憫な響きが漂っているように聞こえた。私は立ち上がって非礼を詫び、"来週またお話を聞きにまいります"といった。牧師は、"どうぞ"といったかいわぬか覚えていない」。妻の死はこれほどまでに堀を壊してしまったのか?

70歳の堀が40代の牧師に、「妻の死を諦められない。もう一度妻と話したい。そんなむさぼりは罪なのか?」と、堀の気持ちに思いを重ねると、人間は斯くも憐れな生き物である。自分にはあり得ない行為だが、他人がそれをするのは人の自由である。が、普通に道理で考えるに、不可能極まりないことを牧師に要求して、いかなる言葉を期待しているのか。こんな無理をいう堀だったのか。

牧師がキリストの力を借りて奇蹟を起こすという淡い期待なのか?人間がとどのつまりは、宗教の霊力に期待するのは人間の浅ましき要求に思えてならない。これは宗教批判というより人間批判である。安らぎや癒しを求めるのはいいが、自分に相応しいものをこそ自力で考え、見つけるべきではないのか。信仰を捨てた堀が、自身の世俗的都合で神を頼ろうとするのは何とも不甲斐ない。

結局、堀は無神論者としても中途半端であったといえる。それはそれでもいいが、最愛の人の死が悲しいのは紛れもない。だからといって、人をこんなに変えてしまうものなのか?我が子の死に遭遇して情緒を狂わせる母親はいるが、父親はそれを戒める。自分も済んでしまったことをクヨクヨしない生き方を旨とする。情緒に溺れてしまうと歯止めがつかなくなるからだ。

イメージ 4

情の深きを知るが故の歯止めであろうか。「覆水盆に返らず」という慣用句は良い言葉であり、実践すべきものと考える。それが自分への新たなるパワーを引き出すことにもなる。終わった恋、捨てた女に慄然とすることこそが、別れた相手を生かすという思いやりである。決して非道・冷酷ではなく、自らの手から離したものへの未練を絶つのが男の責任というものだ。

「復縁したい」、「ヨリを戻したい」人は少なくない。どういう離別をしたのか分からぬが、男が下した一言であるなら、女を捨てた責任は全うすべき。だからか、「ヨリを戻す」のを良いことは思わない。小さく狭い箱のなかだけでゲームをしているかのようだ。「一言を反故にする」ということは、さまざまな場合に生じるが、みっともなくも男らしくない行為と思っている。

宗教が何かを自分は知らぬが、さまざまな体験者から見るに、宗教とか信仰とかは、人間の深い悩みと堅く結びついたものであるようだ。「死ぬのは嫌だ」というのは一般的な人の思いであるが、「悩み」とすべきものではない。荘子の死生観は、「死生一如」。生きるも一瞬、死ぬるも一瞬なら、死と生は同義とする考え方。この考えに否定的な人は以下の考えにある。

「生と死が同じなら、なぜ生を喜び死を悲しむのか?」という批判である。「死生一如」についてかつて考えたことがあるが、今も結論に移動はない。「人間は泣きながら生まれるもので周囲が喜ぶだけ。死ぬものは悲しんで死なない。死後において悲愴感も苦悩もない。全くの無である。いずれの喜悲も本人外の周囲のもの。自らにおいて思考するなら、死生は一如であろう。

イメージ 5


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

Trending Articles