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五賢人のこと

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三賢人というのを聞いたことがある。上の絵は、東方からやって来た三賢人が赤ん坊を見ている場面。この赤ん坊がイエス、女性はマリアでその左にボケっと立っているのが夫のジョセフ。三賢人は生まれたばかりのイエスにプレゼントを贈るため、はるばる東方からやってきたという。下の絵は三賢人を描いた最も古いもので、どうやら贈り物は産着ではないようだ。

彼らの名前はハッキリしていなかったようで、Wikiによると七世紀頃の欧州で次の名が付けられた。メルキオール (黄金持参の青年賢者)。バルタザール (乳香を持参の壮年賢者)。カスパール (没薬持参の老年の賢者)。仏教徒でありながら、"東方の三賢人"が何者かを知る者はかなりの物知りでと思われる。クリスチャンでも知らぬ者は多く、無神論者には何の興味もない。

先に書いた堀秀彦は五賢人の一人である。我が五賢人とは、堀秀彦、坂口安吾、林田茂雄、亀井勝一郎、加藤諦三である。ついでに、hanshirouを加えて六賢人としたいが、残念ながら我はタダの「県人」だ。賢人の定義を調べてみた。①聖人に次いで徳のある人。賢い人。賢者。当たり前だが彼らは自ら賢人などといわない。自ら賢人・賢者と名乗るのは自由だが…

五賢人とは著作が縁で尊敬の念を込めて称すもので、聖徳太子や福沢諭吉のような畏れ多き人というのとは違う。日々雑事のなか、生き方や知恵を書籍から仰ぐ人生の大先輩たちである。坂口安吾を賢人とする世評は聞かない。放蕩無頼を自認する安吾だが、もし彼を知らない人生であったなら、別の自分だったように思う。五賢人の生誕及び死亡月日を以下記す。

 ・堀秀彦 (1902年 (明治35年) 3月10日- 1987年 (昭和62年) 8月27日)
 ・坂口安吾 (1906年 (明治39年) 10月20日 - 1955年 (昭和30年) 2月17日)
 ・林田茂雄 (1907年 (明治40年) 1月15日 - 1991年 (平成3年) 1月28日)
 ・亀井勝一郎 (1907年 (明治40年) 2月6日 - 1966年 (昭和41年) 11月14日)
 ・加藤諦三 (1938年 (昭和13年) 1月26日 - )

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存命中の加藤諦三以外は全員明治生まれである。「明治は遠くなりにけり」という言葉があった。いつ頃いわれた言葉で、誰が言ったものかを調べてみたところ、俳人中村草田男が昭和6年に詠んだ、「降る雪や 明治は遠く なりにけり」が初出のようだ。昭和6年といえば明治が終わって二十年しか経っていない。それでも明治は遠き時代だったのだろうか? 

句の状況というのは、雪が降りしきる中、20年振りに母校の小学校付近を歩いていた。母校は昔のままと変わらないなと思いつつ、その当時の服装、黒絣の着物を着て高下駄を履き黄色の草履袋を下げていたのを思い出していた。その時、小学校から出て来たのは、金ボタンの外套を着た児童たちであった。現代風の若者を見ると、20年の歳月の流れを感じさせられる。

それが草田男の心に、「明治の良き時代は遠くになってしまったものだ」との想いを抱かせた。時代というのは無慈悲に流れ、移り変わるもの。誰もが同じ思いに至るほどに月日を送り行く。平成30年もあと少しとなった。昭和天皇が崩御されて30年も経ったというなら、「昭和も遠くなりにけり」との感慨も湧くが、明治が終わって106年も経っていることになる。

30年前のことは記憶に少なくないが、100年前は記憶どころか生きてもいない。明治は我が祖父母が幼少期を過ごした時代である。祖父母が他界した年月日の記憶がない。月日どころか年度を思い出すのにも時間を要す。祖父母は自分たちが生きた時代のありふれた日常の中で他界した。親の命日を知れども祖父母のそれを知らぬは近くて遠き人なのか。

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あんなに可愛がってくれた祖母の誕生日も享年齢すら知らぬ罪な自分。明治の人は遠き哉。文献の残る堀や亀井ら4人の記述を読むに、明治人の書き起こしたものというより、彼らは我々とともに現代に生きている感じを抱くのはなぜだろう。彼らをして賢人としたが、他に適当な言葉が思いつかなかった。賢人といえばそうであれ、だからか自分的には親愛である。

安吾などは賢人といわれたら、「冗談止めてくれ」といいそうだ。林田もいいそうだし、堀や亀井、加藤も否定するだろう。堀・亀井・加藤も東京帝大出身者。亀井はマルクス主義に傾倒し共産主義同盟に加わったことで、1928年4月に治安維持法で逮捕収監されている。1930年に上申書を提出して釈放されたが、33年に懲役2年(執行猶予3年)の判決を受けている。

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林田茂雄も熊本第二師範学校中退後、1924年上京して左翼活動を行い、1930年プロレタリア科学研究所事務局員となり、「ナップ」、「マルクス主義芸術」などに評論を発表した。翌年『第二無産者新聞』(1932年から『赤旗』に変更)印刷部員となり地下活動に入るも、1932年9月検挙され、6年間非転向しないままに下獄、戦後は社会・文芸評論家として活躍した。

1973年には、『「赤旗」地下印刷局員の物語 わが若き日の生きがい』 なる自伝を著している。加藤諦三のみ昭和生まれで存命中であり、系統的には堀、亀井、林田り同類で悩み・病む若者向けの伝言が多いが、年代的なものからして別枠として後で記す。坂口安吾は4人とは異質でエッセイも書くが、本業は小説家であり、「人生論」などの評論は書かない。

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しかし、『堕落論』、「青春論』、『恋愛論』、『戦争論』、『悪妻論』、『エゴイズム小論』など、秀逸なエッセイを多数残している。気負うところのない是々非々な文体はいかにも男的で、多くの人生論、幸福論、女性論で女性にも人気のあった堀秀彦とは一線を画す。が、女性の安吾フリークといえば、『アイ・ラブ安吾』の著書を書いた荻野アンナが代表格であろう。

彼女は現在慶応大学仏文科教授にあるが、過去には芥川賞(1991年)、読売文学賞(2002年)、伊藤整文学賞(2008年)を受賞した文才ある小説家である。そんな荻野は安吾をユマニスト的作家といい、「彼の文章は含蓄のカタマリで不純物や添加物は一切ない」と持論を述べる。例えば太宰論の書き出しは、「もう十日歯が痛い」で始まり、以下の調子で終焉する。

「原子バクダンを発見するのは、学問じゃないのです。子供の遊びです。これをコントロールし、適度に利用し、戦争などせず、平和な秩序を考え、そういう限度を発見するのが、学問なんです。学問は限度の発見だ。私は、そのために戦う」。これを始めて読んで愕然としたという荻野は、「この書き出しと結実が太宰論の一部なのだから、恐れ入谷の鬼子母神」という。

安吾に影響されると、表題の縛りに影響されなくなるのだろうか?そういうことに気を使わずに書いていられる自分は、多分に影響を受けているかも。安吾は嫌がろうが、彼から受けた影響大なりを含めて賢人である。亀井と林田は逮捕収監歴もありながらも賢人に変わりない。五賢人の所有著作がどれくらいか調べてみた。もっとも多かったのが加藤諦三の68冊。

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亀井勝一郎28冊、坂口安吾21冊、堀秀彦20冊、林田茂雄13冊と続く。聖書を読めども聖人になれないように、五賢人を読んだからと賢人になれない。昨今の政治家でいえば、読書家で東大出の秀才・才媛であっても、どうにもならないようなマヌケな発言をする。自分は五賢人の影響を受けたというより、彼らの言葉が頭に詰まっているからか無意識に文章が似る。

バカ政治家は本を読んでバカになったのか?彼らにはあり得ない発言が多いが、思いつきのおとぎ話のようなことを羞恥なく平然という。国の舵をとる政治家にどんだけバカの見本がいるかが嘆かわしい。片山さつきをして舛添に、「だから彼女と離婚して正解だった」などといわれてしまう。この発言もバカっぽいが、彼の以前の肩書は国際政治学者である。

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