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Channel: 死ぬまで生きよう!
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男と女の諸行無常

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「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」は、形而上学領域で議論される有名な問いの一つであり、神学や宗教哲学、また宇宙論の領域などでも議論される。物事の根拠を「なぜ」と繰り返し問い続けることでやがて現れる問いであることから、「究極のなぜの問い(The Ultimate Why Question)」、またはより簡潔に、「究極の問い」とも呼ばれている。

この命題を自らに当て嵌めて考えると、「なぜ死のうとするではなく、生きているのか?」。さらに、死に急ぐ人に対しては、「なぜ生きようとするではなく、死んでしまおうとするのか?」という疑問に突き当たる。「なぜ死ぬのではなく、生きているのか?」の場合には、「自然」という明確な根拠を想起できるが、「なぜに死に急ぐのか」は疑問でしかない。


なぜ死が納得できないのか?不合理だからである。戦時中とはいえ、むやみな死の強要ですら不合理極まりないが、日本軍は組織的にこれを命じた。「爆弾を積んで敵艦に体当たりせよ!」。これが不合理でなくてなんであろう。不合理の反語は合理となるが、合理主義者という言葉はあれども、不合理主義者というのはない。当たり前だ。誰も不合理など望まない。

死んで何の得があろう。死ねば損だというのは現実主義者である。が、死んで得と考える者は不合理主義者?そうはいわない。せっかく賜わった生を捨てるほどの得が、死にゆく人にはあるのだろうか。そこに行き着くなら疑問ではなくなるばかりか、むしろ合理である。そこでこう結論する。死を強要されるのは不合理だが、自ら選ぶ死は合理のたまものであると…。

自殺者の多くは、「死にたくないよ。でも生きていられない」との言葉を残す。言葉通りに考えるなら、この言い方は矛盾している。「死にたくない」は事実なのか?普通は死にたくないなら生きていれる。が、そこには論理矛盾をきたすほどの何かがあるのだろう。「死にたくない=生きていれる」では解釈できないものがある。「会社に生きたくない」、でも行かなきゃ。

というようなものであろう。人間はしたくないことをあえてする。したいことをあえてしない。果たして人間は、「したくないこと」、「やりたくないこと」をあえてする必要があるのか?「やりたくないことでも我慢して頑張ることは素晴らしいことです」。こんな言葉を聞いたことがある。言われたような記憶もある。これは本当にそうなのか?真の言葉か美辞麗句かは個々の判断だ。

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『野菊の墓』では、嫁ぎ先で姑にいびられ、疲労困憊の果てに実家に戻され民子は流産が原因で死ぬ。「青雲の志」よろしく最高学府に入学、卒業を機に胸を膨らませて社会に出たはいいが、ハードな仕事に体がついていけず、過労死した女性。彼女たちはどれだけ我慢を強いられたのだろう。まるで、「我慢をし、耐えて死ぬのは名誉なこと」といってるように聞こえる。

「女工哀史」の世界観ような、旧態依然とした精神主義がまかり通る社会は、資本家優遇の疲弊した堕落社会である。カルロス・ゴーン問題の核心は、ゴーンが自分だけ沢山お金をもらえばというのが根幹にある。彼は、「社長がこんなに貰っているのを公開すると、従業員がやる気を損ないかねない」などと都合の良い論理を振り回すこんな物言いは、「ガーン!」。

こんなバカなことをいう経営者だったのか。確かに経営トップが自らの「報酬が高すぎる」という批判をかわすために本当の報酬額が知れることを嫌がるケースは大中小企業問わずにある話で、というのも、汗水たらして働くのは末端の社員であるのを分かっているからだろう。だったらどうすべきかという話になるが、隠して嘘の額を公表すればいいことにはならない。

が、個人の報酬額は個人情報に属するものであり、公開を義務付けられた上場企業の経営者以外の企業経営者が、それらを理由に自らの報酬額を非公開とするのは筋が通った話ではあるけれども、「経営者たるものは社内の実権を握り、全社員から注目を集める組織内の公的な立場である以上、自らの報酬について"見える化"していくべき」というコンサルタントはいう。

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自分はいくら貰っているのか、その報酬額を正直に言えない社長は、心のどこかに「自分は貰い過ぎている」という疚しさがあると見受ける。饒舌なゴーンは言葉巧みに、「自分は非開示分くらいの額を貰うに値する」などと述べているが、「だったらコソコソすんなよ」と、誰もがゴーンに言いたくなろう。まさに、「物いえば唇寒し如き」、除夜の鐘(金)のゴーン(?)である。

ま、この問題には見切りをつけるとし、日本人における『我慢が美徳』とも言えるような風土・慣習にさえ、見切りをつけるべきと考える。多少の我慢や努力や忍耐は経験や知識となってプラスになる部分もあろうが、『我慢は美徳』という精神主義的文化はこんにちの時代には行き過ぎで、人を追い詰め、精神的にも肉体的にも痛めつけてしまっているのではないだろうか。

人間はいつの時代においても矛盾は避けられない。自己を押し殺して耐乏の精神を美徳とするも息苦しく、道徳や規則に縛られることなく自由を横臥するも、責任がのしかかる。人間はどのような状況においても迷いは避けられない。人生の難問はむろんのこと、一身上の些事すら、これに思考を加えるや否や、どう決断すればいいのか分からず苦悩に陥ることになる。

どうやら人の生というのは、どう決断していいか分からぬように出来上がっているのだろう。それで一つの決断をすることで、一つの受難となる。ゲーテの『ファウスト』は、彼が82年の生涯のうちの60年をかけて完成した作品であるが、その冒頭には、「努力している限り、人は迷うものだ」との言葉がある。ならば努力を止めればいい、ということにはならない。

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『ファウスト』では、「絶えず努力している者は、私たちが救うことができる」と、天使たちがファウストの魂を運んでいくというストーリーである。「よい人間はいくら暗黒の衝動に促されても決して正しい道を忘れない」とゲーテはいうが、本当にそうなのか?言葉は言葉にすぎず、そのように生きればの話。自らに命じない限り人は安易な悪の道に迷い込んでしまうだろう。

ゲーテの言葉は持続的な探求力者にとって、成就とか完成とかはなく人生に処する勇気ではと考える。安易に悪に染まるものは、勇気を逸していることになる。人は苦悩や迷いから脱するために人や本を求めるが、人以上に書物が一個の人間のごとく感じられる時がある。亀井勝一郎には、「邂逅」という言葉がしばしば現るが、読書とはかかる意味で邂逅であると彼は言う。

人間のさまざまな苦悩のなかで、男女のこと即ち愛欲の迷いほど痛烈なものはないだろう。反面、これほどに精神を満たされるものもない。しかし、青春期の悩みのなかには、愛欲にからめた空想的な悩みが支配的である。それはなぜか?思春期といわれる第二次性徴がもたらすもの。50年以上も前の、「若きhanshirouの悩み」は書籍にはならぬが記憶の隅に残る。

黙って何もせずとも時は流れ過ぎて行く。ならば何かを成すべきか、せざるべきか。それこそが人の決断である。テレサ・テンの『時の流れに身をまかせ』と、沢田研二の『時の過ぎゆくままに』は、どっちがどっちか分からなくなるほどにタイトルが似ているが、言葉は違えど意味は同じであろう。現にジュリーは♪時の過ぎゆくままにこの身をまかせ~と歌っている。



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