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Channel: 死ぬまで生きよう!
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死とは人間と自然の融合

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宗教とは何か?に対し、「…人間の問題の究極的な解決にかかわると人々によって信じられている営みを中心とした文化現象である」という試験の答案では100点満点をもらえるものであれ、宗教においてはその営みの関連において、神観念や神聖性を伴う必要がある。したがって、「人間社会の究極的な問題を解決する」という宗教の理想からは乖離を感じる。

「あなたは神を信じますか?」と道を歩けば問いかけてくる宗教がある。内実をいえば所属宗教団体の伝道ノルマである。信仰とはいうまでもなく神仏を信じることだが、漠然と信じるというのは3歳の子でも言葉にできる。「人間の生きていくための宗(むね)とする教え」としての宗教が神仏崇拝に偏り、教祖を崇めるなどに特化していくのはなぜであろう。

「人為」にはいいものもあるがよくないものもある。が、「自然」の中に悪いものは何もない。自然に従い自然のふところにこっぽりおさまって生きていれば人間は幸せなのだ。こういう生き方を自然主義と呼ぶなら、由来、我々日本人は自然主義者であったし、とりわけ年齢を重ねるにつれて自然主義者になることを、他人はどうであれ自分は望んでいる。

「五蘊の中に衆生をやまする病なし。四大の中に衆生をなやます煩悩なし」。これは一遍上人「最後の遺誡」の一節である。言葉の意味は、すべての存在を成立させている要素「五蘊(色・受・想・行・識)のなかには、本来衆生を害する病気の原因はない。また、人間の関係を形作っているとされる四大(地・水・火・風)にも衆生を悩ませる欲望は一切含まれていない。

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 要するに、それら苦悩の原因のすべては人間自身が勝手にこしらえた災いなのだ。「なるほど」納得させられる。このような教化理念は山ほどあるが、たくさん知っているからといって、説教坊主では何の意味もない。自らそれらを自分がどい実践していくかにかかっている。例えば、「今日の仕事を明日に延ばすな」というが、我々はそのようにできているのか?

立つ鳥の如く後を濁さないでいれるのか?転ぶ前に杖を用意できているのか?良い言葉は宗教だけではないが、どんなに素晴らしい言葉も復唱するだけならカルタとりと変わらない。良い言葉をたくさん知ることで、我々は立派な人間になったような気になるのだろう。賢者の本をたくさん読むことで、向上心だけを養っても所詮は宝の持ち腐れであろう。

人間というのは、「食べる餅」以上に「絵に描いた餅」を好むようだ。それも仕方がない。食べる餅は限られているが、絵に描いた餅は十庫の蔵を所有していても収めきれないからである。時に、名言・美言について考えることがある。「美言は真ならず。真言は美ならず」という老子の言葉が過るからだ。「巧言令色鮮し仁」、孔子も同じようなことをいっている。

こんな言葉を「勉強になる」と思わぬ人はいないだろう。勉強が知識の習得であっても、それだけでは学習したことにはならない。学習とは、体験や伝聞などによる経験を蓄えること。そのために我々は日々の闘いをすべきであろう。昨日できなかったことを今日にできることがある。それはなんとしても、今日に身につけよう、行おうの意欲のたまものである。

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学習とは自らへの挑戦であり、闘いであって、それをしないで何の知識であろうか。子どものころにカルタで知った多くの言葉を思い出す。純粋で素直な子どもは、言葉の意味に感動した。「塵も積もれば山となる」という言葉にいたく感動したのを覚えている。そのことを思い出して実践することがある。外に出れば棒きれが飛んでこないかを用心したりする。

子どもにできる簡単なことですらできない大人は決して少なくない。難しい知識を習得する人間なら、その難しいことを実践できるということになる。自分は事の多くを、「=(イコール)」と考えている。先日、友人にこの話をした。「最近は簡単なことができなくなった。外出から帰ると灯りが煌々とともっている。情けないやら腹がたつやら…」。それに対して友人はこういった。

「そんなのまだいい方だ。俺なんか、水を出しっぱなしで半日外出していた」。そのことを自分は笑えなかった。彼は、「年を取るってことはそういうものと、自分を納得させている」という。そこが自分と違うと感じた。簡単なことができない。そのことには永遠に挑戦して行くつもりでいる。こんなに悔しいことはないし、だから自分にとっては納得する問題ではないのだと。

彼には言わなかったが、自己への暗黙の決意である。確かに我々は自然の中の一部分として一事象の如く生きている。が、部屋の明かりは太陽にもたらされる自然の灯りではなく文明の利器である。人間は自らが考えた便利に愚弄されるそのことが腹立たしい。コンピュータが反乱を起こす映画があった。宇宙船内を快適にコントロールするコンピュータの気が狂う。


怖ろしい映画だが、キューブリックはその映画の冒頭に、人類の祖先と思われる猿人が骨片を武器にするところを描く。映画の半ば、宇宙飛行士とコンピュータが争いのなか、人間はコンピュータ制御を制止させてコンピュータに勝利する。機械の反乱という文明に対する象徴的な作品であった。自然の中で生きたり死んだりできれば人間の生死も美しいものだろう。

野原の片隅で死んでいる昆虫の姿は哀れではあっても、その死骸は周囲の中に溶け込んており、何ら対立感を呼び起こさない。それがもし人間なら激しい異和感を抱くだろうと、その原因を考えてみた。出た結論は、人間は野原で寝起きをしないからというもの。自分にとっての答えである。人間は文明に囲まれて生きているが、もともと人間は自然の中で生息していた。

しかし人間は自然に挑み、自然の中に人間の世界を作り上げたことで人間の生活は少しづつ自然から離れていく。これを人間の英知と称賛するが、人間が自然と調和して生きていけなくなると、人間はより機械化していくだろう。が、唯一人間の死とは、人間がもう一度否応なしに自然の中に連れ戻される。「塵より生まれ出ずるは汝塵に返れ」、それが死である。

宗教とは、人間と自然との分離と対立を媒介せんとするものかも知れない。死んでどこにいくとか、死後の世界が何たらとか、そうではなくて、宗教とは現象的にいって人間をありのままの自然に誘うものであろう。ふと浮かんだのが坂口安吾の太宰への追悼文の一節だ。「人間は生きることが全部である。死ねばなくなる。名声だの、芸術は長し、バカバカしい。

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私は、ユーレイはキライだよ。死んでも生きてくるなんて、そんなユーレイはキライだよ。生きることだけが大事である、ということ。たったこれだけのことが分かっていない。分かるとか分からんという問題じゃない。(中略) 死ぬ時は、ただ無に帰するのみであるという、このツツマシイ人間のまことの義務に忠実でなければならぬ。私はこれを人間の義務とみるのである。」

死んで無に帰するのが人間のつつましやかな義務と安吾はいう。「生と死を論ずる宗教だの哲学などに、正義も、真理もありはせぬ」とも書いている。あまりにも死に尾ひれをつけて論ずればまやかしとなろう。死を厳粛とするは分からなくもないが、見方を変えればただ無に帰するというだけのものである。簡単明瞭なることを難しく考えようと、死は死でしかない。

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