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宗教と信仰について

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宗教を研究したことも、信仰を体験したわけでもないが、宗教や信仰への主観的な感想はある。学問は体系であるから、「体系的に学ぶ」とは、一つの視点や情報にとらわれずに別な視点や情報にも目を通し全体的に学ぶこと。宗教は信仰であり、信仰とは自然や人為を超えた観念で、観念体系に基づく教義、儀礼、施設、組織などを備えた社会集団を教団(宗教団体)という。

信仰は観念であるがゆえ、宗教を体系的に学ぶと矛盾が生じてくる。数千年も前に興ったことを普遍的とするからか?年月の浅い新興宗教はともかく、キリスト教や仏教などの宗教は普遍こそ命で、普遍的であることが宗教である。いろんな宗教があるが、いろんな宗教について知ることが、一つの宗教を信じないことになり易い。だから無宗教が最善と考えている。

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良書には間違いが書かれているといったが、事実と認めがたい聖書の記述を、信仰者は批判してはならないが、無神論者に言わせると、キリスト教は多くの誤りを説いている。もっとも大きな誤りはキリストの贖罪説といわれている。自らが播いたタネは自らが刈りとるという法則から、イエスが人類の罪を償うために磔になったというのはまったくの誤りである。

「事実などはなく、すべては解釈」を聖書に向けてみる。いかなる人間も自分以外の者に代わって苦しみを受けることなどできない。これは摂理であって、聖書の容認しがたい記述のひとつである。自分の成長を管理するのは自分のみ、他人の成長の管理はできない。こんな明明白白に疑問を持たないのか?。贖罪説というのは、神学者が時代の要請からでっち上げた教説であろう。

自分が犯した過ち、その荷は自らがそれ相当の苦しみを味わうことで教訓を学ぶが、他の誰かが自分の罪を背負うというなら、過ちを犯した本人は何を学ぶことになる?こうした矛盾にキリスト教は、「愛」を持ち出し、「愛を学ぶのだ」という。「懺悔」も納得できない。罪を告白しただけでそれまでの罪が許されるなら、真面目に生きてきた人との公平は確実に失われる。

そんなバナナ?傍若無人の人生を送った人間が、死に際の改心一つで立派な霊になれるというのか?ヒトラーがキリスト教に入信すれば、その罪は解放されるのか?宗教家には固定観念所有者が多い。宗教が観念である以上当然容認されている。キリストは、「人間は一度死んで裁きを受ける事が定められている」と輪廻思想をであるが、教会は輪廻思想を容認しない。

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初期のキリスト教では輪廻転生が信じられ『聖書』にも書かれていた。それが西暦553年のコンスタンチンノーブル会議で輪廻転生思想を削除した。キリストは、「一人ひとりが自分の運命に責任がある」といい、「ただ神のみが人を裁ける」と主張していたが、人の運命を教会の支配化に置くため、輪廻転生の思想を聖書から削除したと、内輪で解釈をめぐって争っている。  

キリストの言葉と教会の方針の違いは、前記したように仏教にも存在する。親鸞の教えとあえていいはせぬが、教えに反することも行っている。これは宗教が商売としての側面であるのを否定できないからである。親鸞が宗教を商売として考えた筈はないが、こんにちのお寺は親鸞が何も言わないのをいいことに、法要や高額な戒名など、法外といえる旨いメシの種が存在する。

信仰と宗教の違いを理解することは、人が真に成功するために必要な大事な知恵である。信仰と宗教は、一見似ているものの全く別物である。この違いを理解しないと大切な事を、「確信を持って間違える」ことになる。「信仰」とは神を信頼すること。「宗教」には様々な定義があるが、「宗教とは純粋な信仰とは違い、神抜きで自分の力で天国を地上に実現しようとすること。
 
宗教的な思考で成功を収めた人はいる。大阪には御堂筋という大通りがあり、北御堂と南御堂の二つの寺を結んでいる。かつて、ここで商いするのが近江商人の夢であり、「商売忘れてもお勤め忘れるな」というほどに仏教信仰を大切にした。近江商人が残した商いの教訓、「買い手よし、売り手よし、世間よし」は、仏教信仰のバックグランドから生まれた言葉と考えられる。

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また仏教には、「自利利他」の教えがある。いわずもがな、自分の利益になることをし、さらには他人の利益になることをせよと。京セラという企業を成功させ、日本航空を再生させたビジネスパースン稲盛和夫はこのようにいう。「美しい優しい思いやりのこころで利他の帆を掲げておけば必ず他力の風を受けることができる」(『何のために生きるか』稲盛和夫・五木寛之共著) 

確かに商売の源には宗教の効用がある。「経営の神様」と称された松下幸之助自身、宗教から経営哲学を悟ったといわれている。「宗教には人間を救うという使命感があるが、商売には使命感がないと悟った幸之助は後に、"ナショナル信者"という強固なユーザーを作った。その発端となったのは、「どうして宗教はあれほど盛大で力強いのか」という素朴な疑問だったという。


自分は単に宗教は嫌い、信仰など屁のツッパリにもならないというゲスな人間である。真の信仰者が、決して神を屁のツッパリにしようなどと思ってはいない、そのことは理解をするが、信仰そのものが自身のどういう支えになるのか、するのか、できるのかが分からないのだ。「宗教とは簡単だ。私にとってはこのイワシの頭を絶対者と信ずること」といわれている。

「イワシの頭も信心から」といわれる比喩であるが、我が国では昔からただひたすら信じることに固有の価値を見出してきた。心を無にして信じるところに、信心の真髄があるということのようだが、逆立ちしても出来そうにない。上には宗教に対する偏見を記したが、宗教とは何かについていろいろな文献を漁る中、自分的には以下の記述が最もであると納得する。

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「宗教とは、人間生活の究極的な意味を明らかにし、人間の問題の究極的な解決にかかわると人々によって信じられている営みを中心とした文化現象である」。とこのように宗教を代弁できる信徒がどれだけいるかは疑問である。つまり、それぞれに、それぞれなりの宗教にはまる理由があるということで、人間個々にとっての普遍性ともいえないようだ。

有体にいうなら、人によって宗教に属している理由が違うということになる。が、問題なのは、もしキリスト自身が彼の命がけの教え(つまりキリスト教について)、このように定義されたのを読んだとするなら、どんな気持ちになるだろうか。宗教といものに、生きた、血の通った定義を与えるためには、人間は神への強烈な信仰の持ち主でなければなるまい。

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