人生とは生を受けて死するまでの道のりをいうが、途中の青春期とは人の第二の誕生といえよう。これまでの周囲の人たちから教え導かれた少年期を脱して自らが疑念を提出し、その答えを自らが担うことになる時期。自分の経験でいっても、「どうすればいいのやら…」、苦悩連続の青春期であった。考えても考えても分からない物事や人間の不可解さは学問の比ではなかった。
分からないから考える力が身につく。神仏や誰かの力を借りなかったとはいわないまでも、先人たちの書き物をヒントに自ら考え、自らで答えを出そうとの姿勢を貫いた。そうした取り組みが難題への答えを出せたのだろう。答えに窮したことは差ほどなかった。手にした良書には聖書や仏法、儒教や道教などさまざまで、善いものは憶することなく取り入れたが、妄信だけは避けていた。
好んで読んだのは、坂口安吾、亀井勝一郎、堀秀彦、林田茂雄、加藤諦三で、5人で154冊を占めている。
なぜなら、良い本というのは必ず間違ったことが書かれているからである。「間違いが書かれてない本を良書というのでは?」というのは違う。その理由として、良い本には価値あることが書かれているが、間違いを好んで求む人はいない。しかし、「価値」という問題を突き詰めてみると、間違いを怖れることなくして、「価値のあること」を書くことはできない。
さらにいうなら、「本質をついた価値ある本」というのは、間違う可能性を犯しながらも、それでも何かを論じようとする本ということになる。善と悪が紙一重というように、正誤もまさに紙一重である。その論理からすれば、ニーチェもカントもサルトルも、さらには信仰者にとって良書の最たるものとの疑いなき『聖書』ですら、間違った記述の可能性は大ということになろう。
物事を斜め寄りの視点で見ればこういう考えになる。また、「世の中に唯一絶対正しいことなどない」という考えを規範とするなら、間違ったことが悪いのではなく、間違いを間違いと思考し、判断し、正してゆくのも人間に要求される能力である。これをせずに横着な生き方を妄信という。将棋のような思考ゲームを考えないでやるのは、味気ないしつまらない。
確かに安易は楽であろう。「考えないで楽に生きようぜ!」が口癖の知人がいた。声掛けは自由だが、「勝手にいってろ」である。口には出さずとも聞き流すなどの事案は世に多いが、人は時々の気分に左右もされ、人間関係は時々の気分で成立もするものだから、「聞き捨てならぬ」と、噛みつく事もある。人によっては必ず言い返す者も、まったく無反応な者もいる。
楽に生きるを奨励する人もいるが、向き・不向きは個々の性格による。自分に合うを選ぶべし
人はいろいろな人間相手に世間を生きていくことになる。枠に嵌まるを好まぬ自分は、相手の期待に応えぬ臨機応変を旨とする。今風にいうと、「キャラ無し人間」である。分かりにくいといわれることもあるが、分かりやすい人間に面白味はない。将棋でも、いつどんな手が飛んでくるかわからない相手の方が油断ならない。発想が柔軟であるから手が読めない。
思うにこの世は未知であり、謎である。いつなんどき、何が起こるか分からない中で我々は生きている。同じように、人間の運命も未知であり謎である。滅多にないとはいえ、人の急死は予測できない。搭乗した飛行機が落ちたこともあった。レールのカーブを曲がり切れず、ビルに激突した電車もあった。燃え落ちた水素ガスの飛行船、初航海で氷山に衝突して沈んだ船もあった。
大喝采のなかで宇宙に飛び立ったものの、数分後に大爆発を起こして紺碧に散ったシャトルもあった。歩道を歩いてクルマに跳ねられた小学生もいれば、授業中に刃物を持った男に乱入されて短い命を終えた小学生もいた。命というのはなぜこうも死と隣り合わせなのだろうか。心筋梗塞による友人の突然死もである。明日にもブログが途絶える自分かも知れない。
予期せぬ事件や事故で命を落とした人を、「不遇」というしかないか?なんとも此の世は理不尽である
「生きるということは死に向かうこと」、この言葉を実感させられる。親鸞に有名な逸話がある。彼には唯円という弟子がいた。ある日、親鸞は唯円に尋ねた。「お前は私のいうことは何でも信ずるか?」、まさか弟子が、「何でもって…、そんなことは分かりません」とはいわない。もちろんのこと唯円は、「私はお師匠さんのおっしゃることは何でも信じます」と答えた。
すると親鸞は、「お前を往生させてやろう。往生はあらゆる求道者の最後の目的となる。そこでいうが、お前は千人の人を殺しなさい」といった。驚いた唯円は、「私のような小さな器量をもってしては、一人の人間も殺すべしと思われません」というと、「それでは先ほどの答えは偽りではないか」と親鸞はいう。ほとほと困った唯円に、親鸞はこのように諭す。
「我々人間というものは、心が善いから人を殺さないのではないのだ」と、これは非常に含みのある言葉である。同時に親鸞は、「善き心をもつものでも、千人、万人を殺すことがある」と述べた。何ら難しい言葉ではない。人間の善悪というのは、自分の孤立した考えだけで判断したり、自分だけは人道主義者であるという思いあがりこそ、古びた思考である。
唯円は麻原の弟子達より遥に明晰であったといえる。人殺しをするにあたり、「自分だけの悪でするのではない」と考えるのは古くさい。親鸞のいう新しい考えとは、人間の最終的な結論は阿弥陀が必要であり、西方浄土が必要である。よしんば我々はどんなに醜く、どんなに弱く、どんなに頭が悪かろうと、こうした限界状況と直面できることだけは、誰にも平等に与えられていることになる。
もし、唯円が親鸞の言葉を妄信し実行したとする。然れども親鸞は聖人といえるのか?
「人間を支える者は何か」を突き詰めたときに、やはり突き当たるのが諸行無常という言葉。春に咲き誇った花も秋にはしぼみ、緑の葉は枯れて散り失せる。これを寂寥とみるか、発展とみるかだが、自分は後者と見る。滅亡なくして社会の発展はなく、絶望なくして人間の出発はない。釈迦の言う、「すべてのものは変化する」という考えは、自然科学と何ら矛盾しない。
しかしながら、「すべてのものが変化する」という教えが尊いかどうかは、自分が戦いに敗れたり、挫折を味わったり、絶望のどん底に落ちたりの、限界状況に直面しない限り、人にはわからないだろう。もし、絶対確実な固定した法則や定理があって、それが我々を掴んで離さないのなら、どうして我々は自分自身の生命を意義づけることができるだろうか。
弱き者は永遠に弱き者、醜き者は永遠に醜き者として永久に捨て去られることなどない。一時の不幸、一時の挫折や苦しみが永久に続くことはないと、これが釈尊の尊い教えであろう。仏教その他に無関心の自分は、諸行無常という尊い教えを仏法から学んだわけではないが、何から学ぼうが、どこから受け入れようが、大切なことの仕入れ方はいろいろある。
人間は人間の美しさや強さや賢さを有難がるが、逆も真なりの論法でいうなら、人間の弱さ醜さ愚かさも有難いものと考えてもいいだろう。現に自分は愚かな人間から学び、醜い人間に美を見、弱き人間の芯の強さを見た。再度繰り返すなら、我々は平等に限界状況に直面できる。どんなに醜く、どんなに弱く、どんなに愚かであれ、生ある限り無常に動いてゆく。