絶望で死するか、絶望を生の出発点とすべきか。どちらの考えも生き方も理解はできる。問題は、自分ならどちらを選ぶかであって、絶望の果てに命を絶つひとを全面的に否定はしない。全面的にというからには、一部においての否定はある。その理由として、「人生は無限に広くて深い」という事実。我々の知らない真や美や人間がどこに隠れているか分からない。
一切を自らの思考だけで考えると狭くなる。その狭さからくる人生の否定を肯定することはできない。なぜ、可能性を放棄するのか?死に急ぐ人は、可能性を放棄したと考えないのだろうか。「放棄」も考え方の一つと思うが、死にゆく人のすべてが人生放棄であるとは思わない。例えば三島由紀夫の死について、彼の死は己の生命を完璧ならしむことだった。
自分の生命を完全に表現する死…。かつて武士は死に場所を求めた。死所を求むるということは武士と同様、己の生命を最も美しく燃焼させるところを求めることでもある。三島の死は彼にとっての死であって、他者に論ずる自由はあれども、あくまでも三島由紀夫自身の死である。他人が理解できようができまいが、何の関係もない三島という人間の死である。
いかなる講釈垂れようとも人間は必ず死ぬ。この一見冷酷な宿命を負うからこそ、本当の死所を得たいという祈りにも似た気持ちが現れる。もし死がなければ我々は天国を欲したり、涅槃を夢見たり、神仏に祈ろうなどの気持ちを起こすであろうか?三島という天才的文人が、死という定められた人間の運命を、人間以上のものとする憧れを抱いたと解釈できる。
凡人は畳の上で死ぬことくらいしか考えないが、美しき死所にこそ人の命が花開くのなら、難解とされる三島の死も理解を得よう。一時期小学生の間で流行った「死ね!」という言葉が、最近取り上げられなくなったのは、禁句として規制され、指導されたからだろう。「死ね」も「バカ」も他愛ない戯言なのに、「死ね」はよくない、どぎついということらしい。
「死ね!」といわれて、子どもが死ぬと大人どもは思うのか?ある小学生が自殺した。彼のノートには「死ね、死ね、死ね」と無数に書かれていた。それもあってか彼の死は、「死ねという言葉が原因」とみなすのか?人から「死ね!」といわれて死ぬような人間がいるなら、「死ね!」といった人間以上に問題だ。「死ね!」というのはよくないが普通にいっていた。
自分たちが子どものころにワルサをした言い訳として、「〇〇がやれと言ったから」というのがある。自身の行為を他人が命じたとし、罪を逃れんとする言い方として、大人でも多様するようだ。自分の言い逃れに対してある教師が、「そんなにいうなら君は〇〇くんが『死ね!』といったら死ぬのか!」といわれたことがある。妙に説得力のある言葉に反論できなかった。
過保護で甘やかされた近頃の子どもは、脆弱で傷つき易い性質となり易い。だからか、「『死ね!』などと言ってはいけません」という指導が必要となる。「バカ」といわれて、「バカっていうもんがバカ!」と返すように、「死ねというもんが死ね!」と同じように返せばいいこと。こうした行き過ぎた過保護姿勢が、弱い子どもを余計に深刻な状況に追いやるのでは?
学校の教師、さらには家庭における親の在り方、こぞって弱い子を作ってはいないのか?「死ね!」も「バカ!」も、聞き流せるような子、言い返せるような子に指導できないものか?跳ね返す力こそが逞しさというものではないのか?「人にいわれたから」などと自身の行動理由と正当化すべきではなく、そんなバカげた言い訳は、口が腐ってもいうべきでない。
そのことを昔の教師は子どもに教えてくれたような気がする。かつて児童教育におけるスローガンは、「逞しい子、明るい子」であった。批判する子も逞しさを宿す。妄信を戒め、考ることを奨励する。「考える」ということは、人間が人間として独立するための何より必須な条件である。だから、親・教師の言葉を妄信するのもダメで、神の言葉とて同様である。
親が何を言おうが、神が何を言っていようと、自分のことは自分で決める。それは「考える」という訓練からもたらされる。信仰とは聖人を目指すことなのか?よしんば聖人になったとして満足なのか?神が聖人ならよかろうが、人間の聖人は社会では浮いてしまいかねない。したがって奥里の離れた辺境の地で仙人として存在するのがふさわしいと考える。
人間の社会に聖人などいらない。人間的であるということは、バカをやりヘマをしながら生きていくこと。嫌われる善人の典型は、自らが善人であると思う人ではないか。聖人ならなおさら嫌われよう。肉食・妻帯を奨励、実践した親鸞は自らを悪人と呼び、「悪人こそが如来の本願の正客」と言い切った人だ。一方で、「自分は善悪を知らぬ」といっている。
「善悪を知っているような顔をする者は大空言の形」ともいう。「人間の原罪は子孫に及ぶ」とキリストはいうが、もし親鸞が、「何もかも一切、人間が犯す罪のごとくが宿業のせいであり、自分自身ではどうにもならぬものだ」といおうものなら、「本願ぼこりは地獄におちる」の結論と矛盾する(「歎異抄」13章)。林田茂雄はその著『親鸞』の中で以下述べている。
「世の多くの人たち、いやほとんどの人たちが、親鸞を徹底的な宿命論者と思い込んでいる。私もそうであったが、全集を読み返して発見したことは、彼の書いたもののなかには、『宿業』という言葉すら見当たらない。確かに歎異抄だけは異常に宿業を強調する。親鸞が人に念仏信心を語るときはしばしば宿業を強調したであろうが、親鸞がいうところの宿業とは、"身より起こる病"のことである」。
林田の解釈も一解釈にすぎない。インド仏教の流れを直接受け継ぎ、サンスクリット原典の翻訳に忠実であるチベット仏教は、実践修行においてもインド仏教の伝統を忠実に行っており、「宿命知らずして人生変わらず」という釈尊の教えを基本とする。それらからすれば、日本の数多の仏教宗派は、釈尊の真の教えとはかけ離れた邪宗という言い方もなされている。
大乗仏教と小乗仏教の二つの教えを仏陀は説いたというが、仏陀は一人しかいないから、どちらかであろう。小乗とは言葉の如く小さな乗り物であるが、仏陀の説いた仏教は、どんな人でも救われる大きな乗り物というところの、「大乗仏教」である。日本に伝わり現残するほとんどの宗派も大乗仏教であり、その一貫した教えというのは、「自利利他」であるという。
利己的で自己中心的な考え方は仏教徒にあらずだが、「仏教徒である前に人間である」。これは、「人間であるが仏教徒である」というのと大違いであって、前者は、仏教徒であっても人間の本質丸出し。後者は、人間の本質を仏教の教えによって抑制する。仏教徒もしくは仏教崇拝者は、当然ながら後者でなければならぬが、これは仏教徒でなくとも目指すところでもある。