「死ぬまで生きよう」のブログタイトルもあってか死への思考は止まない。書けど書けども分からぬ死を書くのは妄言である。が、死を分かりたいから書くというより、未知への好奇心かも知れない。随分と前、性体験前の性への興味は、体験後には、「こんなものか」だったが、死だけは死んでも体験できない。だから、どんなものかを想像するよりない。
誰でもいい、死んだ者と話してみたいがそうもいかない。性と同じく、死も体験すれば、「こんなものか」だろう。性への恐怖心を抱くことはなかったが、死への恐怖心は誰にもある。死の何が怖いのだろうか?それすら分からず、漠然とした恐怖心だが、分からぬままに書いていれば分かることもでてこよう。初体験を前にして、「なんかこわい」といった女の子がいた。
何が怖いのかを聞かなかったが、「イタイ」という怖さなのだあろうと理解した。「儀式だ儀式、女の通る道」などと男は軽く癒すが、「怖い」はイタサだけではなかろう。何の機能もない処女膜を進化の途上で手に入れた人間にとって、何がしかの意味はある筈だが、あれだけは男にとって謎である。「開通式を誰と致すのか?」という心構えの謎である。
近年はお荷物でしかないというが、昔の女性にとっては性行為の意味付けに役立っていたようだ。男の、「筆おろし」なんてのは、単に言葉だけである。性の興味が癒えれば死について考えるこの頃だ。人生の真っ盛りの時期に死んだ人たちは、どういう気持ちで死んだのか?あるいは、どういうつもりで死んでいったのか?気持ちとつもりの二つの謎がある。
「気持ち」のなかには諦めの心境も含むが、「つもり」というのは、「こんなつもりじゃなかった…」そんな後悔か?「気持ち」は逸る気持ちを抑え、納得させようとする。「つもり」は諦めきれない悔しさ、情けなさだろうか。この二つの想いが日々交差するだけでも死は残酷である。物事がうまくいかなかったときに、「こんなつもりじゃなかった」という。
若くして死なねばならない人たちの心情は、「(人生)こんなつもりじゃなかったのに…」であろうか。自らの人生を自分で選べないということの、なんと憐みに満ちた言葉であろうか。意に反して終えることになる自らの人生、儚き命を自らに納得させるために、「人は誰も死ぬのだ。自分だけが不幸では決してない」などと、何度も何度も言い聞かせるのも想像に及ぶ。
当たり前のことであるけれども、当たり前のことが自分に覆い被さってくることが、当たり前ではないような気持に襲われるのだろう。いかなる人間といえど、自分の全生涯に対する明確な計画など持つことはできないのである。身をもって生きて実験する以外に生きるすべはないが、この当たり前のことでさえ、「こんなつもりじゃなかったのに…」の思いが交差する。
「どういうつもりだったのか?」という明確なものはないが、「こんなつもりじゃなかった」は無意識の愚痴であろうか。愚痴を言わぬと決めている自分だが、死を寸前にそれを押しとどめていらるれかどうか。愚痴とは、いってどうなるものでもないから愚痴であって、どうにかなるものなら愚痴など不要であろう。かつて父が病床にあったとき、それは不治の病であった。
35年も前のことだが、当時は親族・家族だけに告知された。しかし、そういうことは何となく本人にも分かっているものだと自分は考えた。分かっていながら、押し黙る家族の前に気を使っているのは、実は病人の方であろう。それがいたたまれなくて自分は父に言った。「胆管炎などというけど、がんを見逃しているんじゃないの?医者にも誤審はあるというし…」
父は言葉を発することなく、自分の顔の前で手を左右に振っていた。予期せぬ自分の言葉に驚いて声が出なかったのだろうが、その動作の意味は、「ちがう、ちがう」という風には感じなかった。胆管がんは狭い通路を遮断するので、胆汁が排出されず体全体が黄色になる。これが黄疸症状というが、手術後の予後に不備があったようで、腎不全であっという間に他界した。
一度見舞っただけで、あっという間の帰らぬ人となったが、「がんの痛みで苦しまないでよかった」と親族は納得をさせようとする。不治の病の最善の死に方というのは、痛みと格闘しない事かもしれない。召された父に納得をした。今ならホスピスなどの緩和ケアもなされている。当時はがんの苦痛は耐えがたきものであるらしく、それががんの最大の恐怖だった。
死への理解を深めようとするときには、急ぎ足で死んだ父を思い出す。死とは自然の力によって召されるもので、人為で抗う方法もないではないが、「人事天命」を受け入れるしかない。医師も人間だからミスもあれば下手糞もいる。それで患者が命を落とすことになって、ごたごた騒いでも死んでしまった者はどうにもならない。一切が、「人事天命」である。
じたばたは好きではない。じたばたすることでよくなるというなら、じたばたの効用もあろうが、終わったことを蒸し返して、物事が善くなることが一体のあるのだろうか?そんなことは露とも思わない。1億積んでも死ぬものは死ぬし、5万円の治療費で生きながらえる者もいる。これを矛盾とは言わない。すべては自然の摂理として流れている事柄ではないかと。
死生観やその他の種々についての思うがままを、「随想」といい、書いたものを、「随筆」という。昨今では、「ブログ」で事足りる。書くことは考えること。考えることは生きること。生きる実在感そのもの。一気に書きなぐる性分で、機会あらば読み返し、誤字・脱字を見つけては楽しむ。人間はミスをするものだ。医師がミスを楽しんでならぬが、楽しむミスもある。
人間の実在感というのは仕事と遊びに分かれよう。仕事は生き甲斐という人も、遊びが生き甲斐という人もいる。どちらも生き甲斐とまでいわずとも、こなしたり、楽しんだりの人もいる。形に嵌められる実在感というものはないが、ラッセルに、『怠情への賛歌』という著書がある。「幸福と繁栄にいたる道は、仕事を組織的に減らしていくに在る」と彼は述べている。
仕事に空しさを感じても食う糧を止めるわけにはいかないが、遊びに空しさを感じるなら別の何かを探せばよい。空しさは万人の感ずるところで当然である。なぜなら、人間は死によって限定されているから、永遠の遊びは存在しない。反対に、「死」という限界があるからこそ人間は一層、「遊び」を求める。求めるがよかろう。「遊び」は人間の悲しい生存事実かも知れない。