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無常の愛

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恋愛の言葉の最後というものは、「愛するか否か」の断言だけである。「どちらでもない」という曖昧な言葉はとりあえず無視。然りか、否か、いずれかをいうのが相手への誠意であり、卑怯者の誹りを免れない誠実さでもある。残酷であろうとも自らの気持ちに正直であれば、あとは言い方を配慮すればよい。人は傷ついてこそ強く、逞しくなるしかなかろう。

人間とは一つの幻影という見方もできる。絶えざる危機と不安と不遇のうちに、自覚されてくるものは翻弄される自己である。一体どこに安定を求めればよいのか。自らを強くするのも方法だ。風邪をひかぬ健康な体を作るようにである。確かな自己など存在するのかしないのか、疑いながらも見失われやすい自己に対して、見失うまいとする抵抗力は必然に起こるだろう。

愛という言葉は元来日本語になかった。切支丹が日本に渡来したころ、「love」をどう訳すかで苦労した。切支丹は愛を説く。「神の愛」、「キリストの愛」の、「愛」の日本語訳は、「ご大切」となった。すなわち、「神のご大切」、「キリストのご大切」と称し、「余は汝を愛す」というのを、「余は汝をご大切に思う」と訳したと、坂口安吾が『恋愛論』のなかで述べている。

聖書には正しいことだけが書かれてある言わんばかりだが、キリストの次の言葉は興味深い。「われ地に平和を投ぜんために来れると思うな。平和にあらず、反って剣を投ぜんために来れり。それ我が来れるは、娘をその母より、嫁をその姑より分たん為なり。人の仇はその家の者なるべし。我より父または母を愛する者は、我にふさわしからず…」(マタイ伝十章)

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これは家族の否定である。キリストにとっての信仰とは、一切を捨てて神に従うことであって、それを抑止する家族でさえ仇とみなす。したがって、神がダメといえばダメ、それが信仰というものだ。家族の持つエゴイズムを破壊することなくしては、「個」は純粋とはいえない。自分の経験からいっても、「個」の確立なくして純粋なる自由はなかったといっていい。

キリストの言葉を換言するなら、「個」の集団を第二の家族にに変容せしめて、人間愛を超えたところの神の普遍的愛を、徹底せしめんと志すことを求めている。神が傲慢であることが無神論者にとっての最大の神批判であるが、同じような意味のことは親鸞も述べている。「親鸞は、父母の孝養のためとて、一遍にて念仏まうしたること未ださふらはず。

そのゆゑは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏になりてたすけさふらふべきなり」(歎異抄)。これは孝養の否定である。注釈するなら、孝養という特定のものに捧げられる愛のエゴイズムの否定である。親鸞は先祖の法要など進めていないといったが、なぜに大谷派は親鸞の教えに反するようなことをやっているのか?

キリストが何を言おうが、親鸞が何を言おうが、家族や孝養は否定できない美しいものとこの点に解釈を定めている。そもそもすべての宗教は、家族を捨てることを要請するものである。なぜなら、それが精神の厳しい要請であるからだ。我が国における「出家」という行為も、精神の単一性確保によって、純粋に一対一として仏に直結せんとの潔癖な行為といえる。

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人間が家族のしがらみから離れて、「自己」を持つということ即ち、「心の出家」といいうことになる。キリストの言葉をもし、恋人の言葉と変えてみるとどうであろう。恋人にこのように呼びかけられた者は、家族の中で痛烈なる孤独に見舞われるであろう。それこそが分離のエネルギーであるなら、すべての恋愛は、「家出」の要素を内包していることになる。

「我よりも父または母を愛する者は、我にふさわしからず」という言葉は、神だけに許された言葉と、キリスト教は都合のよい解釈をするようだが、エホバの証人の聖書解釈を批判する別のキリスト宗派は、エホバの証人側からみれば誤った聖書解釈となる。「あいつはバカ」と名指しされたものからみれば、「バカ」と名指ししたものこそが、「バカ」であるように。

子どものころの言い合いが懐かしい。「あんたバカ?」、「バカというもんがバカでしょ」。今にしてこれは正しかったのだと思ってしまう。個々の人間がいるが如く個々の人間の精神とは本来孤独なる性質をもつものであるのを、小学生のころから認識していた。人はつるむという社会的性質がある。党派性とは、厳密にいうなら政治的党派性のことをいう。

すべての政治は組織を前提とする以上、政治的なものは組織的なもの、組織的なものは政治性を帯びる。党派なき政治はあり得ず、権力を目指す政治もあり得ない。ならば、個人的な感情は二義的なものとされるか、場合によっては罪悪視されることになる。宗教もまた権力を目指すところがある。思想の統一性から出る非寛容、これこそが宗教の美徳であるという。

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ラッセルに言わせるとブリテン国教会は、「野蛮な時代の来世観を押し付ける事で民衆に噓を付いている」と、彼らしい放言、いや言説である。彼は自らをこう形づけている。「私はブリテンの働く事をしない有閑階級 (考える事は労働かも知れない) であり、伯爵であり、数学基礎論の論理学者・数学者であり、教育に関する妄想的な社会改良家であった。

そして頭が鈍くなった後は哲学者と言われていた。自分には自分が定めるところの、「五賢人」なる者がいる。マスターベーション的独善とみれば羞恥も偽るところもなく、後に記す予定だが、いずれも日本人で書籍や思想的に拠り所とした人たちである。その上にオンリーワンの、「一賢人」としてラッセルがいる。英国人で距離はあるがが、人間的にみるならまさに彼は人間である。

いかなるものの上に信仰があること自体理解を超えるが、信仰とはそうであるべきもののようだ。党派という社会性も信仰という精神性も、人間に必要なら不要とする我々が否定するものではないが、党派や信仰がどちらも組織を守るためのものなら、そこに限界があることは事実といわねばならない。例えばある党派、ある信仰に在って恋愛したとする。

その相手が党派に属さぬばかりか、その党派に反対する人であったとする。恋愛の相手がその信仰に属さぬばかりか、宗教を嫌悪する人であったとする。こういう場合はどうなるか?ロミオとジュリエットの背景にある熾烈な宗教的争いの知識はなくとも、恋愛そのもの理解はできる。悲恋だからこそ美しいというのは、外野の見方であり気楽な立場の読み手である。

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二人は仮面舞踏会で出会い互いに強く惹かれ合う。舞踏会のソネットで二人は唇や手を巡礼者と例え、愛を信仰になぞらえるが、やがて二人はキリスト教から一時脱却して愛の宗教へと改宗する。二元宗教的な観念を持つ恋の宗教を信仰する彼らには死こそ愛の成就であり、生きているうちは達成され得ない愛の合一なのである。物語は恋愛を超えた深い人間愛を見る。

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