家族・親族が会して食事などをたまにするわけだが、男が少ないこともあってか女同士は満開の桜ごとき会話を乱舞する。「東大王ってすごくない?」、「すごいすごい、あの人たちの頭ってどうなってるんかね~」。誉め言葉に罪はないが、誉めるべくを誉めるならであって、無用の誉め言葉は罪を生む。そうした会話にちゃちを入れるのが男の義務だろう。
「東大生がクイズなんかに熱中してどこが凄いの?」などと低レベルな発言で水を注すのは羞恥である。自分は東大王と称される彼らの栄光の裏にある陰を想像するのだが、人間とはそうしたものであろう。ちやほやされるときと、一人孤独でいるときの対比というのは、ちやほや度の高さに比例すると思っている矢先、話はカープの丸選手のFAに移行した。
「丸は絶対に巨人だね。だって5年で7億でしょ?わたしら一生で1億?」。「丸はロッテに行くよ。7億はやりがいというよりプレッシャーになる。打てなかったり、不調の場合の反動が大きいと思うよ。伸び伸び野球をするならそんなにもらわないのがいいよ」。巨人というブランドを背負うばかりに、悪い時の精神的対処が難しい。丸はロッテに行くべき。
世間は何かと東大生に偏見がある。東大に入ったからと言って何かを背負う必要はなく、18歳のころ勉強ができたというのは間違いはない。世に研究者という人たちがどれだけいるかの想像はできぬが、地道に研究を続けることが頭の良さを高めるというのではなく、50歳でノーベル賞の栄誉に与ったなら、その日まで地道な研究を絶やさなかったということだろう。
頭が良いからノーベル賞というよりも、「継続は力」という風に思えてならない。東大王の一人で最年長の伊沢拓司は、ウェブメディア「クイズノック」の編集長を務める傍ら、ユーチューブで映像配信もしている。「クイズで食べていける保証はない」というが、ここまでのめり込んでしまった以上、仕事にできたらの思いもあろう。農学部の大学院に在籍する彼はいう。
「1年半くらい前は研究で身を立てることも考えていましたが向いてないのがわかりました。上には上がいて、東大の研究者は本当に四六時中、研究のことばかり考えていますが、僕はそこまではないですから…」。ことクイズに関していうなら、「上には上がいる」という言葉は彼にはない。趣味や遊びのクイズを職業として成り立たせられたらそこそれが彼の才能だ。
クイズ番組に限らず、それ系のバラエティ番組の醍醐味は双方向で楽しめるということがある。視聴者も一緒に考えたりできるし、東大生が分からなかった問題をたまたま知っていたりすると喜びも倍増するのだろうし、瞬間エラくなったような気になる。とても知るはずのないような奇問・珍問を答える東大生を、「偉い」、「賢い」、「凄い」の言葉で称賛する。
こうした現象を医学博士で日本学術会議会長などを歴任した東京大学名誉教授・黒川清氏は、「こうした学生の知識は体系化されておらず、単なる物知りにすぎない。まして、新しい考えを創造する力を欠いている場合が多い」。と冷ややかというよりも受け取った事実をいうしかない。なぜなら、学問とは体系であって、それに必要な知識こそが大事とされる。
そんなことは言わずもがなで、「日本一の頭脳」と番組で持ち上げられようと、遊びの領域であるのは百も承知であろう。趣味や遊びについて東大生を特別視する必要もなく、東大にいかなくても人が知らない知識の習得を日々血眼になって頑張れば、沢山保有することはできる。あとは、頭のなかをどれだけ整然と整理・整頓できる能力を有しているかどうかの問題だ。
世の中には多くの事柄があり過ぎるくらいにあり、すべてを知るなどは不可能であるが、多くを知ることが善いということでもない。あるゆる方面において、どの方面の知識においても、それ自身だけを持っていても善いということにはならず、あり余る知識所有者が、心広くて情緒豊かな人間観をもっているとも限らない。単なる技術の一要素としてみなされる。
究極的な知識というのは、生きるために必要なものであろう。我々が生きて行くこと、我々の生命を守ることに大切と考える。むやみに求め、戦う助けとなるような知識以外を、貴重な時間を割いてまで獲得する心のゆとりはなかろう。そこで以前から思っていた、受験戦争における受験のための勉強の無意味さである。こんなことを国家がなぜ放置していたのか、いるのか?
そのことが最大の疑問であった。教育に対する狭い功利的見解についての言い訳など腐るほど知っている。どれも言い訳にしか思わぬが、大切なものと考える人がいるのも知っている。自己が暮らしを立て始めないうちにあらゆることを学ぶ必要はなく、本当に、「有用」なる知識外の無用な知識をああまでして習得するのか?二度とない子ども時代を犠牲にして…。
有用な知識が時代を作ったのであって、機械も自動車も鉄道も飛行機も化学繊維も食料の自給などなどが挙げられる。そうはいうものの、「無用」の知識が絶対に無駄で不必要とは思っていない。「無駄」も人間の生きる要素であり、「駄」という言葉には生活の実体が見れる。駄賃、駄文、駄菓子、駄ジャレ、駄弁、駄作、駄馬、駄目、駄チン(粗チン)、駄マン(ダメ男)。
何気に使う言葉の羅列である。「ダサい」は、「駄埼玉」が語源という説もある。「駄」とは、名詞に付いて、「値うちのないもの」、「つまらないもの」、「粗悪なもの」などの意を表す。人間社会に「善と悪」があり、「悪」も必要なように(必要悪と言われるものとは別の)、「秀」とは別の、「駄」も必要だ。思うに、「無用」の知識の最も大切な長所というのは、心の瞑想ではないかと愚考する。
電車の中でのスマホいじりは多いが、なぜこのような貴重な時間(?)を瞑想や沈思黙考に使わないのだろう。そこまでして人間は、何かをしていたい、しないではいられないものなのか?と、何もしない時間の大切さを人が失っているように思えてならない。「何もしない」という何かをしていることが、人間にどう大切かの科学的根拠はは不明だが、おそらく何かがある。
分らぬことは「おそらく」というしかないが、何もしないでいることが賢明であると知恵が教える何かが、おそらくある。そんなときに何かを行為する、行動するというのは、はやり切った気持ちではないかろ…。武田信玄が掲げた、「風林火山」の「山」とは、「動かざる事、山の如し」である。メフィストフェレスは若き学生に、「学理は灰色だが、生活の木は緑だよ」と告げている。
それを額面どおり悪魔の邪心とするのか、どうなのか。瞑想や沈思黙考は、心に宿る思索である。それはささやかなものではあるが、深いものであり、利益がある。生活の中、人間関係における小さな煩い事を、考えることは少なくとも、現実逃避のゲームよりは実入りがあろうかと。良いと思うことを言うのは押し付けになりがち。よって、「妄言には妄聴」を善とす。
確かに教養の与えるささやかな楽しみは、実生活のこまごました悩みを取り去るものとしての効果はあるが、ものをじっくり考えることの大切な働きは、人生途上の大きな害悪、死、苦痛、残忍性、宗教の独断性などについて、しかと答えをだすことにある。人生はいつの世にも苦痛に満ちているが、様々に思考をし、智慧の力を借りることで、沼から抜け出すことは可能である。