Quantcast
Channel: 死ぬまで生きよう!
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

「愛」の無常について

$
0
0

イメージ 1

すべてのものが移り変わることを、「無常」というなら愛も例外ではない。いや、愛こそが無常の最たるものか。この場で幾度か書いた言葉がある。「彼は10年前に愛した女性をもはや愛さない。その筈である。彼女は以前と同じでなく彼も同じではない。彼も若かったし、彼女も若かった。今や彼女は別人である。彼女が以前のままなら彼は愛したかも知れない」。

パスカルの『パンセ』の有名な一文だが、男目線という批判には、彼と彼女を入れ替えれば女目線となる。男が書けば男目線、女なら女目線となろうが、いってることは同じこと。当たり前の事実であり平凡に見える言葉であるが、ありきたりの事象といっても人間はこの平凡な事実によって多くの悲劇を生んでいる。この世に男と女がいる限りそれは続く。

人間を悲惨に導くものは特異なことではなく日常の些末なことや、眼には見えぬ心の変化によることで起こるのではと、こうして書きながら感じとっている。何気なく過ぎて行く日常というのは、実はそれほどに恐るべくことかも知れない。パスカルは10年というが、「10年は一昔」というほどに人間の変化を大にする時間なのだろう。別の言い方で成長という。

成長とは決して良くなること、前進するとは限らない。悪くなることも成長である。パスカルは変わるということを、「人間の状態。不安定、倦怠、不安」と説明しているが、これまさしく日常における人間の状態であろう。「愛」という言葉は多分に濫用されている。恋愛、人類愛、友愛、神の愛など、愛というものの種別は異なるが、一緒にすることはしばしば起こる。

イメージ 2

愛が矛盾であるのは、それなくして生きられない人間でありながら、しかも人間はその愛で傷つく。愛とは巨大なる虚偽といえるかも知れない。これによって人は結びつくも、これが原因で人は敵対する。愛は人を欺くばかりか、自己をも欺く。一体、愛とは何なのか?気まぐれの情動であるのか、それとも美しいものであるのか。どちらであって、どちらでもない。

だから矛盾というのだ。パスカルは愛を10年という時間の上に成立させている。確かに10年前に二人は、「永遠の愛」を誓い、無上の幸福に浸っていたのかも知れない。時間というのはときどき不思議なものに思えることがある。時間は、喜びを苦しみに変えるし、苦悩を和らげる魔力を持っている。さらに時間というのは人間に対して復讐をするところがある。

復讐とはやや比喩的な言い方だが、つまりは年をとるということ。歯は抜け、髪は白く、皮膚は垂れ、皺が顔全体を覆う。女性は小じわというがいずれは大じわとなる。パスカルの様々な言葉は端的に、「無常」を語っているに過ぎない。自分は男であるから女性を行為したことはないが、分かったようなことをいえば、男と女の大きな違いは鏡を見る時間と回数か。

おそらく男はあまり鏡を見ない。見るのは映るからという理由が大きい。一日にトータル5分も見ないし、回数も多くて3度である。鏡を見る必要のある時以外はやらないが、女性の必要性はありすぎる。気になるから見るのだろうし、気にならないから男は見ない。それからすれば自己愛という観点からも男と女は違っている。女は我が肉体を男は我が精神を愛す。

イメージ 3

古来多くの男女が愛のために自殺をした。何のための自殺であるかは個々に理由があろうが、強いていうならいかなる自殺も何らかの意味において、自己の、「証明」であろう。死をもって自己を証明するというのも過分ともいえる決意に思われるが、自己の存在理由を死で明示するいじらしさのようにも考えられる。特に少年少女の場合には、「いじらしさ」がそぐう。

失恋による自殺というのも、恋を失った絶望によって、彼(彼女)はその恋の絶対性を確信したという自己証明であろう。この前にもこの後においても、これ以上の恋はないという自己を証明して見せているのであろう。なんという美しかな瞬間であろうか。愛の永遠性を断言した美しき瞬間、永遠に不変という愛の定義として、これを疑うことはいささかもできない。

死というのは絶対の証明といえる。武士の切腹も同じ論理に満ちている。自殺の論理とは、絶対を死で完結することで、自分が今後昇華できる自信がないとも考えられる。11月25日は三島の命日、いろいろ言われる三島の自決も絶対性としては確かであった。絶対を生きる者は刹那的死を遂げる。人間は死んでみなければどういう人間なのか、いささかも分からないものだろう。

生きている限りは全く不安定で不安でだらしなく、愛のいかなる絶対もなければ、根底には背信の危機を蔵している。「愛」とは何か。言い尽くされ、使い古された言葉であるが、いつの世も新しく解釈がなされながら、解釈されつくさない言葉こそが、「愛」である。思い切って定義づけてみるなら、愛とは能力であろう。何の能力か?「凝視」の能力といってみる。

イメージ 4

相手の心の中から、運命までも見つめ通したいと願う心といってもいい。恋人であれ親子であれ夫婦であれ、愛はそういう欲望を持ってはいまいか。受け身の形で言うなら、見つめられる愛である。誰にもあろう、凝視し、凝視された思い出、それは愛であったはずだ。愛は捧げるものというが、それ以上に人は愛を求める。大事なことは「無心」のうちに宿る幸福だ。

キリストは、「隣人愛」を説いているが、「隣人の愛」は、それを誇示するかたちであらわれてはならない。また、「奉仕」の対象が権力であってはならない。国家権力であれ、宗教権力であってはならないといいつつ、権力とかかわりのない、「奉仕」を探す方が難しいほどに奉仕は権力に結びつき易い。なぜ人は、「慈善」を誇示するのか。なぜ布施や寄付を誇示するのか。

神社の碑の寄付の額の多い者から名が彫られている。富裕者の100と貧困者の1の価値とは数字の如きなのか。宗教が権力となるのは、崇める対象が権威である以上、避けることは難しい。「善い生活とは、愛に力づけられ、知識によって導かれた生活のことてある (The good life is one inspired by love and guided by knowledge)」。これはラッセルの言葉。

彼のモットーとしての言葉である。英国教会の信者であったラッセルの宗教批判は主としてキリスト教に向けられている。「なぜ私はキリスト教徒でないか」、「宗教は文明に有益な貢献をしたか」、「私は何を信ずるか」が、単純に率直にラッセルの論旨を示している。とりあえずラッセルは置いておき、「愛は無常であるか?」の命題について思考をめぐらしたい。



Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>