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『種の起源』 ダーウィンの偉業

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『種の起源』が発売されたのは、1859年11月22日。安政の大獄で吉田松陰らが処刑されたのが同年11月21日だから、『種の起源』発売1日後である。初版1250冊以上の申し込みを得るなど人気を博したが、「ヒトとサルは共通の祖先をもつ」というのを示唆したことで、キリスト教社会から、「人は猿ではない。人と類人猿とは別個に想像されたものである」と激しく攻撃された。

これに対し、進化論を擁護する人は、「幼児が足指を曲げるのは樹上生活の名残りである」などの例をあげて反発した。「進化」という捉え方自体を生物学のなかで確立した学者にはフランスのジャン・ラマルクがいた。彼の『動物哲学』の刊行は1809年だから、『種の起源』の丁度50年前である。しかし、進化論の先駆者としてラマルクの名があがることはない。

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ラマルクはなぜ理解されなかったか。彼は無脊椎動物を分類する過程で進化理論を思いついた。「あらゆる生物は漸進的に変化をする。種は環境に適応して変化し、ある器官は頻繁に使用すれば発達するが、使わなければ退化をし、その変化は子孫に遺伝する」としたが、この考えは受け入れられず、彼は晩年には盲目となり不遇と貧窮のうちに世を去った。

ラマルクが評価された点は、生命の多様性を時間の流れの中で考察したところにある。彼以前の生命理解には時間の流れは取りれられなかった。ラマルクとダーウィンの違いを端的にいうなら、ラマルクは進化の根拠として、「完成を目指す生命の自己運動」というものを考えていたが、この考え方が彼以前の古い時代の生命観につながっていたことが挙げられる。

他方、ダーウィンはラマルクの考えを否定し、それを乗り越えて現代への方向を示した。ダーウィンの進化論は概ね次の2点を前提としている。① 生物は、親が自分とほぼ同じ子を容易に作り出すことができる。② しかし、子は完全に親と同じとは限らないし、また子孫同士の間にも微細な違いがある。この2つの前提は、どちらも遺伝の仕組みと関係がある。

ダーウィンが進化論を打ち立てたとき、彼は遺伝の仕組みを知っていたわけではなかった。しかし、遺伝の仕組みとDNAの存在が明らかになった現在において、ダーウィンの進化理論の枠組みはしっかりと維持されている。現代に生きるダーウィニズムは各所に散見されるが、華麗な色彩とともに、小柄できびきびした動きで見るものを楽しませてくれる熱帯魚。

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多種ある熱帯魚のなかのある種にあっては、オスの尾びれの下端が剣先のようにとがっており、それがいっそう繊細な感じを増している。ところが、この尾びれのとがりはオスだけにしか見られない。進化論ではこれを、「雌雄選択の産物」と解釈している。尾びれの先のとがったオスほどメスに人気があり、したがって子孫を残す機会が多くなるというわけだ。

こうした選択が何世代か続いた結果、この特徴がオスの顕著な性質としてこの種に確立した――、というのがこんにちにおける標準的な、「雌雄選択」の論法である。いわずとしれた単純にして明快な論法であるが、考え直してみると疑問のふしがないわけではない。とりわけ次の2点は、「雌雄選択」の議論の際には、必ずといって繰り返される反論である。

① 尾先のとがっている種ととがっていない種が、ごく近縁である場合がある。両者の違いはなぜ生じたのか。

② とがった尾は鑑賞には適しているが、あまり長くとがっていると、個体の行動に上で不利になるだろう。これは、有利な形質が選択されて発達してくるという進化論の考え方に反するのではないか。

ダーウィンは『種の起源』でこう主張する。「生物界では常に多数の個体が生み出され、それらの間には僅かな個体差がある。そのため、環境により適したものは、または生存競争においてより有利なものが生き残る確率が高く、子孫を残す機会が多い。このことが生物の進化を促す」。ダーウィンはこれを品種改良などの人為選択に対する自然選択と呼んだ。

彼はこの説を『種の起源』刊行の17年前となる1842年にまとめていたが、長いこと発表を控えていたのは、裏付けとなる資料を整理して理論を完全にするために努めていたからだ。ところが、1958年 (『種の起源』発刊の一年前)、アルフレッド・ウォレスという同じイギリスの博物学者が、自然選択と同じ考え方の論文をダーウィン宛に送ってきたのである。

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ダーウィンはことさらに悩んだ末、友人である地質学者チャールズ・ライエルらの勧めで、ウォレスの論文とともに自分の研究の概要をリンネ学会に発表することにした。自然選択説は多くの点で優れていると考えられていたが、ダーウィン自身が認めるように、いくつかの難点を抱えていた。進化の過程状態にある種が見つからないのもその理由である。

また、極度に完成した機能を持つ器官(目や耳など)は、本当に自然選択によって徐々に形作られたのか、本能は自然選択によって獲得されるのか、変異はどのようにして遺伝するのか、などである。このうち、変異の遺伝などのように、その後に解決された問題もあるが、100年前に提起した問題の一部は、現代生物学においても未決定の問題としてしばしば議論されている。

イギリスの科学誌『NATURE』1994年4月7日号の論文の冒頭には、「雌雄選択の理論は長らく論じられてきたが…」とあり、ダーウィンの『人類の起源及び性選択』(1871年)が、文献表のの最初に引用されている。しかし、ダーウィンの業績は、生物学の中の限られた問題としてではなく、創造論やその他に対する世界観を新たに確立したことにあろう。

有体にいうなら、現代の科学理論の方向を定めることに大きく寄与したといえるのではないか。「進化」の原動力とは何であるか。上記した進化論の2つの大前提は遺伝の仕組みと関係があったが、遺伝の仕組みが不明の時代において前提が成り立っていたのは理論が正しさを裏付けている。ダーウィンの頭には創造主の絶大なるパワーなど欠片もなかったろう。

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1831年12月、イギリス海軍の帆船ビーグル号はデポンポート軍港を出発した。航海の主目的は、南アメリカのパタゴニア、チリ、ペルーや南太平洋の数個の島々の測量を行うことになっていたのだが、なぜかその中に一人の若き博物学者が同乗していた。その人こそがチャールズ・ダーウィンである。この航海はダーウィンに様々な知識と経験を与えたのはいうまでもない。

彼はこの航海の4年後には、「自然選択説」を思いついていた。「自然選択説」が生物進化の仕組みを超えて、生命全体の見方や生命を通して見た人間観や世界観の基礎として、こんにち不動の地位にあるのはダーウィンの堅実さによるところが大きい。創造論が真実であるなら異存はないが、何の努力も汗にも満たぬ創造論に功績はない。神に功績もへったくれもないか…

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