キリスト教支配から科学の時代へと移行の過渡期が17世紀である。宗教と科学に関する問いかけは17世紀を機に始まったが、検証可能な事実を対象とする科学と、信仰の理由をあえて求めたりしない宗教は相容れないものであった。とはいえ、キリスト教徒すべてが科学的な探求をしていなかったわけではない。著名な科学者が熱心なキリスト教徒だったりした。
キリスト教の影響を受けた時代の人々にとって、自然についての「知」が、神の御業や計画についての「知」に連なるという前提は、何ら疑うものではなかったが、人間の欲求に対して信仰以外の別の立場から答えを求めようとする試みは、本質的には相補的なものでもあった。すなわち、17世紀に誕生した近代科学は、キリスト教と密接な関係にあったことになる。
『機械と神』の著者リン・ホワイト(1907-1987)は、キリスト教が環境破壊を推し進めてきたことを、初めてはっきりと述べた歴史家であり、「聖書が人間にこの地球上のすべての生物を支配するように命じており、現代の環境危機の原因はこれら"最も人間中心主義的な宗教"思想の支配にある」と論じたが、ジョン・パスモア(1914-2004)は以下の反論を加えている。
「聖書のなかには人間は神の代理として、世界を世話する責任を負わされたスチュワード(執事)、農園管理者という思想があり、これが保全を正当化する」(『自然にたいする人間の責任』1974)。神の代理人としての人間は動植物の世話を任されているという人間中心主義的な環境保全思想の源泉との解釈を可能とした。彼は、「保全」と「保存」を厳密に峻別する。
「近代的な西欧科学はキリスト教の母体のなかで鋳造された」(リン・ホワイト)も事実であり、キリスト教会によって宗教裁判にかけられたガリレオは、神やキリスト教を否定して科学を唱えたのではなく、彼は「神は『聖書』の尊いお言葉の中だけではなく、それ以上に、自然の諸効果の中に、すぐれてそのお姿を現わし給うのであります」と語っている。
ニュートンとライプニッツは、「神と自然の関係」について激しく論争したのは知られている。「神は常にどこにおいても自然に働きかけている」と考えるニュートンに対し、「全知・全能なる神の所産である自然は、神の介入による手直しを一切必要としない」と考えるライプニッツから、「神の御業に関して奇妙な見解を示している」と非難されている。
イギリスの詩人A・ポープはニュートンをこう讃えている。「自然と自然の法則は夜の闇に隠れていた。神は言った。『ニュートン出でよ』と」。西欧世界ではアイザック・ニュートンが登場する17世紀の前半まで、世界は二つの異質な部分からなると考えられていた。神と星々の領分である天上と、月より下の卑しく、とりとめのない領域たる地上の二つである。
古代の人の考えた宇宙や地球を図解でみると面白い。誰もがそのような宇宙を地球を考えていたのだが、決してキリスト教が真実を覆い隠していたわけではなかった。重いものは必ず地上に落下し、太陽や月はほぼ1日で地球のまわりを一周する。これは人々が日常的に経験していた事柄であり、常識であった。それを疑う理由もなければ、疑う者もいなかった。
キリスト教が事実を捻じ曲げていたのではなく、当時はキリスト教の方が人々の常識となっていたに過ぎず、そこに宗教的な意味を加えたと考えるべきだろう。問われるべきは17世紀の以前の人々がなぜ誤った自然観を信じていたかではなく、後に現れるニュートンたち科学者が、それまでの常識を疑い、数式で表現された力学法則の下す宇宙を真正と考えるようになった。
1543年、コペルニクスが発表した「地動説」は、宇宙の中心は地球ではなく、地球は自転し太陽の周りを公転しているとした。この巨大で重い大地を動かすものは何なのか、重い物体はなぜ宇宙の中心である太陽に向かわず地上に落下するのか、さらには地上の物体はなぜ地球の自転によって降り飛ばされないのか。こうした問題をコペルニクスは解決できなかった。
コペルニクスの60年後、ケプラーは地球を含む惑星が太陽の周りを楕円軌道をとって回っていることを発見した。地動説同様これが新たな問題を投げかけた。つまり、惑星を楕円軌道につなぎとめている力は何なのかという問題である。近代という時代が力学を必要としたのは天文学の要請だけでなく、資本主義の芽生えとともに様々な機械や滑車やクレーンなどである。
哲学者として有名なデカルトは、数学者であり自然科学者であり、「運動量保存の法則」や、「慣性の法則」を発見したことで知られている。17世紀後半、「神は言った。ニュートン出よ」とのポープの言葉は、ニュートンの偉大性を示すものだが、ニュートンはガリレオやデカルトらの研究を批判的考察することで、あらたな動力学的宇宙像を打ち立てようとした。
そうして数々の発見をしたが1687年、『自然哲学の数学的諸原理』(プリンキピア)における万有引力という考え方を公表した。天上と地上を統一したニュートン力学は、20世紀にアインシュタインの、「一般相対性理論」で新たな、「重力場の方程式」が発表されるまで力学における根幹だった。キリスト教徒であったニュートンは生涯をキリスト教研究に打ち込んだ。
「天体を動かすのは神か未知の力か」、「世界の始まりは神か自然のなせるわざか」。このような疑問を抱けば、自然と突き詰めるべく行動を起こすだろう。それがガリレオでありニュートンでありダーウィンであった。本年3月14日に他界した物理学者スティーブン・ホーキング博士は、英国ウェストミンスター寺院にニュートンやダーウィンと並んで埋葬された。
同寺院のホール司祭長は、「ホーキング博士は著名な科学者たちのそばに埋葬されるにふさわしい。生命と宇宙の神秘にせまる大きな問いへの答えを探るには、科学と宗教の協力が欠かせない」との声明を出した。「進化論」を疑う者は少ないが、一神教の文化圏には、知的存在が生命や宇宙を設計したとする、「インテリジェント・デザイン説」信奉者は少なからずいる。
宗教心にあつい人々を相手に科学について語るべきなのか、語るとしたらどのように語るのか、これらは多くの科学者が直面する問題である。科学者が科学について何かを語る目的は、科学を教えることなのか、あるいは宗教の誤りを示すことなのか。科学と宗教という2つの世界観は互いを豊かにできるのか。宗教は本質的に悪なのか?神は妄想なのか?
ベストセラー『神は妄想である』(The God Delusion,邦訳は早川書房)の著者でもある進化生物学者のリチャード・ドーキンスは、「人間性や生命、世界は神によって創造された」という宗教的信念に対する熱烈な批判者であり、科学的論法を傷つけようとするあらゆる試みを厳しく批判するばかりか、創造論を、「不条理、知性の減衰、虚言」とまで粉砕する。
「戦闘的無神論者」を公言する彼は、科学と信仰の平和的共存にはあまり興味を示さず、無神論者が自分の立場を公言できるようにアウト・キャンペーンを始めた。彼はイギリス人だが、クリスチャンの多いアメリカの社会にあって、「無神論者は誇りを持つべきだ、卑屈になる必要はない。なぜなら無神論は健全で独立した精神の証拠だからだ」と述べている。