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進化か創造か

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神の存在を信じる人が信仰に入り、神の存在を信じぬ者は信仰の対象がない。宗教学者や神学者は、「旧約聖書」の証拠を躍起になって探し求めているが、不思議なことにパレスチナの大地は、「旧約」の証拠を何一つ残していない。このことは『聖書』にまつわる最大の謎であろうし、これまでそのことを誰一人として疑いを差し挟まなかったのは何故なのか。

パレスチナが「旧約」の舞台であるのを疑う者はいないが、時代が進んで聖書学が進むにつれて、パレスチナに疑問を抱くものも現れた。ある学者は様々な地名から、「旧約」の舞台はアラビア半島西部という確信に至る。ベイルート生まれのこの学者はカマール・サリービーといい、1985年に『聖書アラビア起源説』を発表してセンセーションを引き起こした。

「旧約」の故郷がパレスチナであれアラビア半島西部であれ、聖書が人類のすぐれた遺産であることに変わりはない。「旧約」の記述が理解できなかったり、素直に受け入れられなかったとしても、「新約」が記録にとどめているキリストの愛深き清冽な言動には、信仰に浴さぬ人々にあっても心打たれるという。「旧約」は特殊、「新約」は普遍といえようか。

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」。ハイデガーの有名な言葉である。存在する一切のものは、なぜそこに存在するのか。答えは明白。目の前の椅子も机も誰かによって造られたからである。天地はどうか?これにも二つ説がある。何者かによって造られたのか、それとも世界は偶然に何かのはずみで出来たとするのか?神を信じる者は前者、信じぬ者は後者。

創造主か進化論か。この二つの内のどちらが正しいならどちらが間違っている。これらについて人間は確かな証拠をもたないが、人間レベルの思考で解明されるのか?創造主を信じる者は、"生命は偶然に生じるか"については懐疑的である。1953年シカゴ大学の大学院生だったスタンレー・ミラーは、ハロルド・ユーリーの研究室で有名な実験を行っている。

「ユーリー=ミラーの実験」と称されるこの実験は、水素、メタン、アンモニア、水蒸気からなる、「大気」のなかに電気火花を通し、たんぱく質の構成材料となる多くのアミノ酸のうちの幾つかを生じさせた。これらの気体は実験が行われた当時の地球物理学者によって、原始地球の大気中に存在していたと考えられていた気体であり、放電は落雷を模している。

しかし彼は生命の存在に必要な20種類のアミノ酸のうちの四つを得たにすぎない。「生命が地球上で誕生したこと」、「生命が原始大気の下の海中で産まれたこと」は生物学者の推理だが、そのためには素材となる物質が多量に存在しなければならない。現在の地球上でそのような複雑な有機物は、人工的合成を除いて生体内以外では作られないと考えられていた。

その後の地球物理学の進展により、最初の生命が誕生した時の大気というのは、メタンやアンモニアなどの還元性気体でなく、二酸化炭素や窒素酸化物などの酸化性気体が主成分であったと考えられるようになり、その際、酸素がどの程度含まれていたかが論争になっている。現在、多くの生命起源の研究者たちは、ユーリー=ミラーの実験を過去のものと考えている。

「有機物のスープは形成されなかった」。残念なことに現在では認められないユーリー=ミラーの実験だが、彼が切り開いたのは生命発生の過程を実験的に検証する方向性において意義はあった。生命の進化における最初の比較的容易な段階(アミノ酸合成)を通過する理論上の可能性すら極めて望みがたいが、科学者が安々と創造主を認めるわけにはいかない。

生命が創造主の手になるなら、進化というのはどう位置付けされるのか。すべての科学者が進化論を受け入れてるわけではないが、ある物理学者は、生命の自然発生的起源の公算が小さいことを認めたうえでこう述べている。「受け入れる唯一の説明は創造である。現に私たち自身にとってそうであるように、これが物理学者にとって禁句であるのを私は知っている。

が、実験的証拠によって裏付けられている説を、自分たちが好まないという理由で退けるようなことをしてはならない。ダーウィンの『種の起源』はある意味で科学における宗教となった。ほとんどの科学者がそれを受け入れており、それと適合させるために自説を曲げようとする科学者も多い」。発言の主であるH・リプトンという物理学者は検索で出てこない。

おそらく信仰に厚い人なのであろう。現代において、「進化論」は証明されてない以上、「説」に過ぎないとの少数意見もあるが、「進化論」を土台にした考察で世界の始まりは考えられている。確かに進化論を肯定する学者のなかにも進化論には重大な欠陥があると指摘する者もいる。だからといって、信仰である創造主の存在を肯定するわけにはいかない。

「キリンの首が進化であのようになったなら、なぜ進化の過程の化石が見つからないのか?」。というように、あらゆる「種」と「種」の間で移行型とされる中間形態が、まったく発見されないのはなぜなのか?中間形態として無理に何かの生物を当てはめようとしても、やればやるほど無数に中間形態が増えるだけで、ミッシングリンクの数が増えていく。

古生物学者キッツ博士はこう述べる。「古生物学者は、中間種がないのが事実であるということを認める状態に傾いている」。スミソニアン協会の著名な生物学者オースチン・H・クラークも、「人間が下等な生命形態から段階的に発達してきたという証拠はない。いかなる形においても人間を猿に関連付けるものは何もない。人間は突然に、今日と同じ形で出現した。」

多「進化論」は多くの問題点が指摘されているにも関わらず、定説として揺るぎない地位保ってきたのは、「進化論」を正しいとする力の行使があったからで、それはメンデルの法則からも明らかである。例えば、犬にはさまざまな変種ができても犬から猫は絶対に生まれない。結局、進化論は無神論者によって推し進められるもので、有神論科学者は微妙な立場である。

科学は真実を求めるが信仰は真理を模索する。真実とはそのまま読んで真の事実。真実は外面的なものであるが、真理とは内面的(精神)な問題である。「進化論」は仮説ですらないと有神論者はいうが、一切は科学によって解明すべきものである。精神世界であるところの、「信仰」が、「創造主」を力説すれども、信仰を科学で解明することはできない。

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