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天地創造という想像

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聖書は一体誰が書いたのか?『旧約聖書』の最初の五篇はモーゼとされ、「創世記」、「出エジプト記」、「レビ記」、「民数記」、「申命記」を、「モーゼ五書」と呼んでいる。ユダヤ教もキリスト教もこの五つはすべてモーゼの書いたものとされている。ところが「旧約」にはモーゼが知るはずのない記述が散見され、常識的・合理的に見て奇妙なことが数箇所存在する。

ヘブライ語『聖書』の完成から数世紀にわたって、ユダヤ教のラビたちはこの矛盾について、「モーゼが知っているはずのないことを口にするのは、彼が予言者であるからだ」と、「モーゼ五書」のほころびを繕うための詭弁を弄したことも分かっている。オカシイと思った人は存在していたが、それらの多くが沈黙したことで『聖書』の批判・検討はなされなかった。

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11世紀に入り、スペインの宮中御典医を勤めたユダヤ人が、「創世記」第三十六章にあるエドㇺ王国の王の人名表に、モーゼが没したはるか後代の王の名が出ていると指摘をした。こののち、さまざまな人が『聖書』記述の矛盾点を口にしたり、書くようになったが、こうした人々のなかに17世紀イギリスの哲学者トーマス・ホップスやオランダの哲学者がいる。

これに対して教会は、破門・反論・軽蔑・黙殺などの手段で『聖書』批判を封じ込めていく。19世紀イギリスにおいては、百科事典「ブリタニカ」の編集者を勤めていた旧約学者のウィリアム・スミスが、『聖書』本文を批判したことで異端審問の宗教裁判にかけられる。結果的に異端の嫌疑は晴れたものの、スミスは大学教授の職を追われることとなった。

20世紀に入ると、ローマ教皇ピオ十二世の『回章』が事態を一変させた。1942年に出たその文書で教皇直々に、「『聖書』批評の勧め」を行ったのだ。以後、ハーバード、イエール、プリンストン、ユニオン神学大などの大学が、『聖書』批評研究の講座を設けている。ユダヤ教の改革派ラビ養成学校のヘブライ・ユニオン大学まで『聖書』批判講座を設置した。

その後も紆余曲折を経ながら『聖書』はさまざまに批判・検討され、新たな解釈が生まれ、つけ加えられた。解釈は真実に近づくものか、真実から遠ざかるものなのか。たとえばあることが真実であったとしても、それが真実であるかどうかを誰が決めるのかという問題がある。「真実などない。あるのは解釈のみ」というニーチェの言葉はそのことをいっている。

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例えば、人を殺してみた。誰もいないところでコッソリと。死体は切り刻んで焼却炉に放り込んだ。さて、自分は犯罪者なのか?その前に、犯罪とは何かといえば、刑罰を科せられる法的侵害のこと。であるなら、人を殺した行為が殺人という犯罪になる為には、取り調べという場が不可欠となる。行為も結果もバレないという意味での完全犯罪は存在し得ない。

事の本質上、バレなければ犯罪ではないからだ。推理小説でいうところの完全犯罪は、犯人を特定する証拠を一切残さない犯罪のこと。その場合は、行為も結果(殺されたことを示す状態など)も警察に露見しており、立派な犯罪である。人を殺すのは道徳に外れた悪事だが、バレなければ犯罪とはならない。万引きもそう、不倫もそう、だからバレないようにやる。

AがBを殺したという事実は存在しても、Aのみぞ知るBを殺したという真実を、A以外の他人は知ることはできない。では、AがBを殺したという事実をAが警察で供述すれば、B殺しというAの犯罪は真実となるか?残念ながらAの供述は嘘の可能性もあり、自白信憑性に欠けるのは、殺しても殺していない、殺していなくても殺したといえるからである。

AのB殺しは真実であって、Aはそれを正直に供述したなら真実ではないか。とはならない理由は、Aしか知らぬことを他の者が信じるわけにはいかないからだ。信じたとしても裁判がある。「実はあれは嘘だった」と公判途中で覆す可能性もある。したがって、犯罪を立証するための証拠の確保が必要となる。物的証拠がない場合の自白を状況証拠という。

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が、それは事実認定するにおいては確かなものとはならない。ましてや真実には程遠い。このようなことから、裁判というのは真実を追求するところではなく、真実を追求するなど土台無理といわねばならない。では、裁判は何をやっているのか?法廷という場による弁護側と検察側の格闘である。それで必要なのは、法律知識と裁判技術(テクニック)である。

それを横目に裁判官が正しい裁定をすればいいが、現代には大岡越前守のような名裁きは期待できない。常識を疑う裁判官の異常判決がしばしば問題になるが、「日本の裁判は大丈夫なのか?」の声も上がるほどだ。「日本の裁判は真実が争われるところではない」としたのも、日本の裁判官にはその真実をあぶり出す能力と見識があるだろうか」との問題もある。

司法研修所における司法教育とは、法律の専門家になるための教育が中心であり、裁判官は法廷に出てきた限られた証拠や証人に絶対性をおくことになるが、これがそもそもの間違いである。裁判官に求められる最大の能力とは、「法廷に出された証拠から正しい事実認定をする能力である」。ところが裁判官は、単に法律のプロで、事実認定のプロというわけではない。

イメージ 4事実認定のプロという言い方は、裁判官の事実認定能力をいい、見識や経験が重要となるこうした能力は、司法修習といい教育で身につくものではない。物事を謙虚に見る姿勢や、社会におけるさまざまな実体験によって得た常識を積み重ねて身につくものといえる。最高学府と称される大学の法学部をでたところで、あるいは司法研修所を卒業したからといって、社会常識が身につかない。

「裁判官とは通常では考えられない感覚と常識を併せ持つ人種」と古老弁護士はいう。「キャリア裁判官は刑事であれ民事であれ、法律理論と実務上の判例を知ってはいても、実生活の中で現実に動いている生活実務を肌で知らない。世の中で食べていくために必死で働き、喘いでいる人たちの実相に格別に詳しいわけでもない。(『裁判官はなぜ誤るか』岩波新書)

人は誰もが嘘をつくし、我が身を守るための嘘はついても許されよう。つくなという方が土台無理だからである。して、彼が嘘をついているかどうかは誰のにも分からない。言ってることが真実であるかを理屈で解き明かすよりなく、追求すれば嘘は綻び、ついには嘘をついていることが耐えられなくなるが、そういう人間ばかりでもない。死んでも嘘をつきとおす頑強な者もいる。

人が嘘をつく以上、真実というのはどこにあるのか。法廷いおける、「私はBを殺した」、「私はBを殺していない」は同価値であり、言葉だけではどちらが正しいかを判断できない。だから大岡裁きが必要となる。『聖書』の記述が真実かどうかは司法判断に委ねるものでもないが、信仰とは信じて仰ぎみること。正しい、正しくないの問題ではなく信じるが前提となる。

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