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宗教と因果・神話と呪術

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マルクス主義というのは、宗教と対峙するところから生まれた。唯物論哲学からみた観念論哲学者というのは、宗教も芸術と同じような空想あるいはフィクションの世界であることを理解できずに、真理のあり方だと解釈する。さらには芸術も 宗教も真理であるというところに共通点があり、宗教のほうがより高度の真理だというところに差異があると主張した。

対する科学的な唯物論においては芸術も宗教も認識の在り方であり、芸術のフィク ションも宗教のフィクションもフィクションというところに共通点を認め、その在り方に高度とか低級といったランクの違いというのではなく、本質的に大きな違いがあるとした。例えば小説の登場人物も宗教の神も、現実に存在しない空想の産物という点では変りがない。

しかし、芸術のフィクションというのは、フィクションであることを前提とし、自覚して創造するが、これらの創造は表現のための創造であるから、創造した世界が表現として定着すれば、それで一定の効果をあげたことになる。つまり、あとは用済みとなり、消滅してもよい。創作側のみならず、鑑賞側においてもあらかじめフィクションであるを前提としている。

が、鑑賞者はフィクションの世界から自由にぬけ出すことは可能で、現実的な自己の立場からそのフィクションの世界をとりあげることもできる。これに対して宗教は、そのフィクションをあくまでも、「真理」として提出するものであり、信者もまたこれを真理として受けとるばかりか、神が現に存在して自分の運命を規定し、左右するものだと思っている。

これを真理とするなら、「真理」を消滅させるためには、「真理」を放棄することであり、これは教義として許されるものではない。したがって宗教というフィクションの世界に入った信者は、そこから抜け出さない限りは入りっぱなしという状況になる。自分たちの宗教を批判することはおろか、外から眺めることすらもできない。宗教の怖さはここにある。

自分たちの位置や立場を客観的知ることはできなくなるという怖さである。宗教に限らず、一般的な会社や企業ににおいても同じことが言える。ある企業が、非情のあくどいことをやっていたとする。例えば粗悪品を廉価で作らせて高価で販売したり、効用のないものをさも効果ありと謳ったりで多大な収入を得ていた。従業員は当然ながらそれを知っている。

知ってはいるが高額な棒給を支給されているなら、良心など何するものぞ、売って売って売りまくるであろう。このような形態でのし上がった会社はこれまでにも数あったが、人間性を逸脱した会社が長続きするはずはない。これが意味するところは、高禄で召しかかえば人間は何でもするし、どっぷり内に浸かると悪に加担していることすら麻痺してしまう。

宗教は精神世界である。オウムのような謀略を掲げた宗教は、テロ集団であって信仰ではない。しかし、信者の多くは人を殺すことすら信仰線状にあったと解釈する。彼らは実社会に生息しながら、現実的な世界の在り方と観念的なフィクション世界の在り方とをどのようにつなぎ合わせていたのだろうか?宗教心というのは自己を阻害するものだったのか?

それとも自己を徹底的に肯定するものだったのか?おそらく後者であろう。現実的な思考を麻痺させることで、こういう手法をマインド・コントロールという。これは教育の一手法であって、教育からもたらされたものは、自分で考えることをせず、指導者や宗教教義だけをインプットされ、それに従うようになる。家庭でも親が子ども同じ方法で支配するケースがある。

とみに行われるのは受験戦争における偏差値至上主義教育である。マインド・コントロールには、思い・行動・感情・情報という四つの要素がある。思い=勉強できれば幸福になる。行動=塾に行く。感情=勉強するためなら親は全てをなげうつ。情報=世の中は勝ち組が生き残る競争社会。親はこの四つを自ら意識しなくとも、子どもにこれらを洗脳していく。

人間ならば、例えば自分のようにバカな母親と思えば洗脳されるどころか、命令や指示に従うこともないが、宗教には神がいる。神の言葉を代弁する教祖がいる。あるいは、仏に帰依した教祖がいる。彼らは絶対者であるから、バカな神、バカな教祖という風には思わない。思ったらそこを出ていくことになろう。バカに従ってなんかいれられないとなるからだ。

自分が書いていることは残念ながら宗教批判であって、宗教批判をしながら無神論者としての戦いを行っている。宗教の良い部分は、宗教に入信している人に多くもたらされているだろうが、彼らと同様に宗教や信仰に良さを見出せない自分の生き方もしかりである。宗教がインチキ商法で信者に高額な物品を販売するなど、あってはならないことが現実にある。

「そんなのは真っ当な宗教と言わない」と、社会問題化した後なって言ってみてもすべては後の祭りだ。なぜなら、社会問題化する前には信者にとって何の問題もない宗教である。高額な物品購入を強制された時点で、「おかしい。脱会すべきかも知れない」と批判を抱くなら被害にあわないが、そこで言われたことに反感を抱くのは神への背信と感じてしまう。

物事を鵜呑みにしたり、信じやすい人を救う方法は、最初から(宗教など)入信すべきではないのではと、そういう防御策しか見つからない。100万や500万の壺を、「有難い物」、「あなただけに特別に提供する物」、「他の信者さんには与えられる段階ではない」などといわれ、「うるせー、そんなもんいるか、コノヤロメ!」という信者は皆無とまではいわぬが、少ないだろう。

組織の長や幹部に従わないで、その宗教にいれるだろうか?いるにしても、後ろめたい気持ちになるだろう。明日1000円持ってこいと言われたら無条件に持っていくのが宗教に思えてならない。現に、教団のゴージャスな施設はすべて信者のお布施で建っている。あれを見て思うのは、どんだけの金銭を信者から巻き上げているのだろうと、そのことばかりである。

「エホバの証人王国会館」も立派なのが多い。仕事よりも組織統治や普及活動が個人の人生設計より大切だという。宗教には寄付という名目のお布施が必須だが、「お布施の額で幸せの量が決まる」と聞いたときは上手い話だと思った。貧困な信徒に対しては、「無理をなさらず、あなたにできるだけでいいんですよ」と強制はしないが、ナシでいいとは言わない。

一般的に人は理由を知りたがる動物である。なぜ火は燃えて水は冷たいのかに始まって、様々な物理現象に不思議感を抱くが、物事の理由(原因)を説く宗教もあり、仏教説話には因果の話がたくさんある。が、インドのサイババのような特殊能力(霊力)を鼓舞する宗教者もいたりする。多くはインチキでありトリックであるが、人が霊力を信じるところに宗教が生まれる。

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